スイヒラリナカニラミの伝説
(03/32)
〈一九九五年三月二〇日〉
ラッシュアワーには慣れていたつもりだけど、それでもこの日の電車ときたら、呆れるほどに混み合っていて、僕らは水揚げされるときの鰯のような気分を味わうことができたのだった。ひどいね、と僕は言った。ひどいね、と彼女も応じた。
「ねえ、信じられる?」彼女が言う。「この世界に、ううん、この東京だけで、こんなにたくさんの人がいる。こんな狭い空間に押し込められた、何百人だかっていう人間が、みんな、あたしたちと同じように、何かを考えたり、感じたりしてる。この電車に乗っている人たちはみんなそれぞれ、家に帰るとパパだったりママだったり、息子だったり娘だったり、愛されてたり憎まれてたり、幸せだったり退屈だったり、してる。それなのに、――それなのにみんな、そんな区別なんかこの世にありはしないって感じで、この狭い金属の箱に押し込まれて、輸送されている。無機物みたいに。ねえ、そんなのって、信じられる?」
そしてここでは僕らも、輸送されるひとつの物体にすぎないのだった。たとえば僕がどんな花が好きかとか、彼女の耳たぶにいくつほくろがあるかとか、僕らが昨日どんなキスをしたかとか、そんなことはここでは何の意味も持たないのだ。
大学は春休みだったから、僕らはいつものように食堂でうどんをすすったり、図書館でつまらない本を広げたりしていることができなかった。だからどこかへ出かけなければいけないのだけれど、どこに行ったって何も変わりはないのだった。どこかへ行く、ということ自体、既にパッケージングされた一個の商品なのだから。
どうしようもなく柔らかい日差しだった。僕らは手をつないで、公園のベンチに腰掛けていた。オフィス街にほど近いその公園では、事務服姿のOLが菓子パンを急いで頬ばったり、重苦しそうな上着を小脇に抱えたサラリーマンが小走りに通り過ぎたり、そんな光景ばかりが目に入ってきた。すべてのものがビデオテープの早回しみたいに、流れ過ぎ去っていく感じで、静止していられるのはこの世界で僕たちとこのベンチだけであるような、そんな感じがしてきた。
この手を離したら濁流に呑み込まれるような気がして、僕は彼女の手をほんの少し強く握った。そうしたら彼女も、もう少し強く握り返してきた。僕らはきわめて無力な一組の漂流者だった。この流れに抗うには僕らはあまりにも弱小すぎて、ただお互いの手を握っていることしかできない。
「子供の頃は、生物学者になりたかったの」彼女はそう話した。「誰も足を踏み入れないようなジャングルとか砂漠とか、高山地帯とかに行って。誰も目をとめないようなほんの小さな昆虫を見つけて、涙する。そんなのに、憧れてた」
春の日差しはこの上なく平和で、そのせいで僕は少し涙が出そうな気がした。
「――だけど今、あたしはそんな昆虫なんかとは何の関係もない、つまらない本ばかり読んでいる。誰がどこで何回セックスしたとか、そんなつまらない話ばっかり。文学だって。笑っちゃう。あたしはもう生物学者にはなれないんだと思うし、五年後のあたしがいったい何をやっているのか、見当もつかない」
「じゃあ、今は何になりたいの?」
僕が尋ねると、彼女はおどけたように肩をすくめて見せた。
「そういう風に考えたことって、ないわね。何かになるとか、そういう観点から自分のことを考えることって、もうほとんどしなくなった。昨日と今日と明日、ただそれだけ。昨日の方が今日よりほんの少しいい日だったような気がするし、明日は今日よりもう少しつまらない日になりそうな、そんな気がなんとなくする。ずっと、その繰り返し。きっとこの先もこんな風にずっと続くんだと思うし、どこかで劇的な変化があるとも思えない」
彼女は猫みたいにうん、と背中を伸ばした。だから僕も彼女に負けないように、猫みたいな大きなあくびをした。このまま猫になってしまうのも悪くない、と思った。僕らは食べたいときに食べ、寝たいときに眠り、時々寄り添って互いの体温を確かめるのだろう。僕が猫だったら、きっとそうする。
だけど僕は猫ではなく人間だったから、正午過ぎに訪れた規則正しい空腹に対して、レストランかファーストフード・チェーンかどこかに、回答を求めなければならないのだった。僕らは結局、全国チェーンのありふれたハンバーガーショップで、パサパサしたハンバーガーと塩辛いフライドポテトを口にして、飢えを満たすのだった。
「不思議ね」彼女がまた言う。「あたしたちは今、いつもの駅から二時間も遠くに来ているのに、いつもと同じハンバーガーを食べている。いつもとまったく同じ味がする。この牛肉だって小麦粉だってきっと、ずっと海の向こう側で生まれ育ったもののはずなのに、全部別々の場所で生まれ育ったもののはずなのに、それがまるで機械でプレスされたみたいに、ううん、もしかしたら本当に機械でプレスされてるのかもしれないけど、ごちゃ混ぜになって、世界中どこに行ってもまったく同じ、一個のかたまりになって出てくるのよ。ねえ、そんなのって、信じられる?」
「――想像もつかないね」僕はそう答えて、ハンバーガーの残りを胃袋に押し込んだ。