スイヒラリナカニラミの伝説
(04/32)

〈一九九七年五月二七日〉


 携帯電話がポケットベルを駆逐したのはいつのことだったろう?僕はポケットベルの、あの健気な姿が好きだったのだけれど。つい去年まで、僕もポケットベルを持っていたのだ。文字表示はカタカナのみで、たった十四文字しか表示できない、ちっぽけなやつだった。だけどお互いにその十四文字の中で、どうにかして意志を伝達しようと工夫するのは、ある意味、必死のコミュニケーションだったように思うのだ。
 今や僕の手にした携帯電話は、お互いの声を聞くことができてしまう。百五十文字までなら、eメールでだってやり取りが可能だ。僕らはコミュニケーションに苦労することがなくなった。それは確かに、便利になったのだ。便利になったのだけど何か、僕は腑に落ちないものを感じていた。
 僕の携帯電話がその決定的な、不可逆的なメッセージを受信したのは、購入されてから一月目のことだ。女友達の一人と、食べ残して放置されたうどんみたいにゆったりと長話をして、通話を切ると、その直後にメールの着信音がぴろん、と鳴ったのだ。
 せいぜい四センチ角の、ほんの小さな液晶画面に、文字が散らばる。《1件のメッセージを受信しました》サブジェクトは無題。差出人は、不明。そして僕は画面を下の方へスクロールさせて、本文を見た。

   スイヒラリナカニラミ

 僕はその液晶画面を眺めながら、しばらくスミレの花みたいに押し黙っていた。それから目を二、三度しばたたかせ、もう一度携帯電話の画面を顔の方にぐっと近づけて見た。

   スイヒラリナカニラミ

 繰り返し何度見返しても、そのメッセージが何であるのか、僕にはまるで理解できなかった。何かの間違いだろうか?誰かが何か、意味あるメッセージを発信しようとしたのに、どこかで何かの手続きが間違って、僕のところに、ひねくれたメッセージが届いてしまったのだろうか?
 そうだ、例えば、ポケットベルに送信したつもりのメッセージが、違う機械で受信したために正常なコードに基づいた変換がされず、意味の通らない言葉になってしまったのかもしれない。そう思って僕は、僕の携帯電話が受信したその不可解な文字列を、ポケットベルの変換法則に従った逆変換でもって、数列に戻してみた。33126291925121529172。だけど、それでもやっぱり、そこに何かの意味や法則性を見出すことはできなかった。
 僕は考える。――スイヒラリナカニラミ。そもそもこれは一つの不可分な単語なのだろうか、それとも個別の役割を持つ複数のパーツが結合したものなのだろうか?僕は試しに、スイヒラリナカニラミを「スイヒラリ」と「ナカニラミ」に、さらに「スイ」と「ヒラリ」、「ナカ」と「ニラミ」に分けて考えてみることにした。するとそれは、とても不思議なリズムを持つ言葉だと気づいた。どうにかその言葉の意味を掴もうと躍起になった僕の手を、スイ、ヒラリと軽くすり抜けたかと思えば、僕の手の届かない地点にすっかり落ち着いて、ナカニラミ。憎らしいくらいの運動性だ。
 そんなことを漠然と空想しているうちに、電話が鳴った。今度はメールではなくて、普通の着信だった。液晶画面にはもはや先刻のメッセージは表示されず、電話の発信元であるところの女の子の名前が、ただ「里佳」とだけ、表示されていた。
「今、僕にメール送った?」
 電話に出るなり僕はそう尋ねた。そうしたらとても不機嫌な声が返ってきた。どうやら、僕の応対が気にくわなかっただけではなさそうだった。
「知らないわよ。ねえ、今からそっちに行ってもいい?」
 駄目って言ってもどうせ来るくせに、とは、思ったけれど口には出せなかった。はいはい、と適当に応じて、僕は電話を切る。それから、先程の不可解なメッセージを再び画面に表示させてみた。スイヒラリナカニラミ。たった今僕と電話をしていたリカは、ナの字で真っ二つに分断されていた。


 程なく僕のマンションを訪れた里佳は、普段より少し高級そうなワンピースを着て、普段より少し厚めの化粧をしていた。ただ、口紅は端の方が少し剥げかかっていたし、髪の毛はくしゃくしゃになっていた。ブーツを乱暴に脱ぎ捨てると、里佳はどすどす、と足音を立てて上がり込んでくる。
「まったく、頭に来ちゃう!ねえ、ちょっとシャワー借りるね」
 そこがまるで自分の家であるみたいに、里佳はぽいぽい、と服を脱ぎ捨て、バスルームに消えた。僕はワンピースをハンガーにかけ、代わりにTシャツを一枚出してきて、バスルームの前に置いた。それから、床の上に散らばったブラとショーツを拾い上げて、そのTシャツの上に置いて、最後にいちばん上にバスタオルを置いた。
「ねえ、ひどいと思わない?五十年後も里佳のこと好きでいてくれる?って聞いたらさ、そんな先のこと分からない、だって。そういう時は嘘でも好きだよ、って言うのが礼儀だと思わない?」
 肌着の上に僕のTシャツを着込み、バスタオルでごしごしと頭をかき回しながら、里佳がシャワーから出てきた。眉をつり上げてぷりぷり怒る里佳の顔は、だけど化粧を落としてしまったら眉がほとんどなくて、それであまり迫力がないのだった。だから僕は別段臆することもなく、いつものように答える。
「それだけ誠実な彼なんじゃないの?」
「誠実はいいけどね。その後あいつ、何て言ったと思う?『五十年後どころか明日だって、どうなるかは誰にも分からないよ』だって。ムカついたからあたし、お尻蹴っ飛ばしてやった」
 僕の部屋の冷蔵庫を勝手に開けて、里佳はビールを飲み始めた。まだ昼間だ。僕は特に何を飲むでもなく、ただベッドを椅子代わりにして座って、里佳の愚痴を聞いていたのだった。大して酔っぱらった風でもないのに、里佳は急にとろんとした目で、僕にこう尋ねてきたのだった。
「里佳って、可愛くない?」
「大丈夫だよ」
 僕は幼児にしてやるみたいに、里佳の頭を撫でた。いつものことだ。
「だって里佳は目がちっちゃいし、唇はタラコだし、ほっぺたにブツブツ多いし、最近二キロ太ったし」
「大丈夫だよ」里佳の頭を撫でてやりながら僕は、父親になったような気分でいる。「里佳は、可愛いよ」
「ありがとう」
 里佳は不意に立ち上がって、僕にキスをした。里佳の唇はビールの味がした。Tシャツの裾から太股につっ、と触れてやると、里佳の肩がびくん、と震えた。僕の頭はひどくクールダウンしていて、今日の夕飯は何を食べようか、なんて考えていたけれど、対称的に僕のペニスはどうしようもなく勃起していた。里佳が僕をシングルベッドに押し倒して、僕のペニスにコンドームを被せている間も僕は、サーモンのムニエルとマカロニサラダに、のんびりと思いを馳せていた。
 あなたが彼氏だったらよかったのに。里佳はそう言う。いつものことだから僕は適当に聞き流す。あなたは優しいし、冷たいこと言わないし、料理も上手だし、あいつよりセックスも巧いし。毎日そんな台詞を繰り返しながら、だけど里佳は、僕より冷たくて料理もセックスも下手な彼氏のところに戻っていくのだ。別にそのことを嘆こうとも思わなかった。
 冷蔵庫に寝そべっているマヨネーズの在庫のことを考えながら、僕はまったく事務的に射精した。里佳は僕の上に覆い被さり、必要以上に耳元に口を寄せて、ありがとう、ともう一度言った。僕は返事をせずに、ただ、起き上がってキッチンに行きマカロニを茹で始める、そのタイミングを見計らっていた。