スイヒラリナカニラミの伝説
(05/32)

〈二〇〇一年XX月XX日〉


 穴に落ちた。
 棚の上のマーマレード瓶を眺めながら、僕はアプリコットのジャムの方が好きだな、なんて悠長なことを考えていたら、不意にどすん、と尻餅をつくことになった。軽くお尻をさすりながら上を見上げると、そこには林檎の木のほかに何もなかったから、それで僕は視点を下に向けた。するとウサギが僕の顔を、動物園の珍獣でも見るみたいに見上げて、きはっ、と独特の笑いを洩らしてから、
「革命!」
 と叫んだ。
 それで僕は、ははあん、こいつは革命ウサギなのだな、と思った。であるならば、この転倒した世界の裏側に通ずる抜け穴を知っていたとしても、不思議ではないように思えた。
「やい、革命ウサギ」僕は尋ねた。「お前の革命の行き着く先、ひっくり返ったパンケーキの裏の裏の裏。どこにある」
 革命ウサギはきょとん、とした顔で僕を見上げる。それから、口ひげのまわりをごしごしと洗って、ちょん、と後ろ足で立ち、胸を反らして、きはははは、と笑い声を上げた。それで僕は少し腹が立った。
「何がおかしい」
「だって、ほんとにまったく革命なのだワ。ハートのハートの女王様が、ダイヤの兵隊山ほど連れて、『マラをちょん切っておしまいイイィッ』ッて。スペードスペード、スペードのエースは、男根」
 それから革命ウサギは、自分の言ったことが心底おかしいという風に、文字通り腹を抱えて、きはははは、と笑い転げた。僕はいよいよ頭に来て、革命ウサギを捕らえようと躍りかかったけれど、革命ウサギは僕の手の中からヒラリと逃げ出し、リンゴの木の枝に素早く上って、僕を見下ろしきはははは、と笑うのだ。
「革命!革命!」
 ウサギが鳴いた。その声が何かの警告音みたいに聞こえて、僕はふと肩をそびやかした。それは確かに、危険物の接近だった。吐息がかかるくらいすぐ近くに、金色の髪がふわっ、とひるがえっていて、それは間違いなく、アリスなのだった。
「こんにちは」アリスが僕に話しかけてきた。「いいお天気ね」
 まさしく素晴らしい天気だった。突き抜けるように真っ青な空が、僕らの頭上を覆っている。だけどその空と僕らのいる地上とは、ガラスのような透明な何かで隔てられていて、上空の清浄な空気は僕らのところまで到達することはなく、ここはじっとりと湿った風が流れていて、発酵したような臭いさえ漂ってくるのだった。
 僕は手を伸ばして、背もちょっと伸ばして、僕らを覆う透明な天井をこつん、こつんとノックしてみた。ああ、これは、ブラウン管だ。
「革命!革命!」ウサギが騒ぎ立てながら、僕とアリスの足下を駆け回っている。
「あなたは、だあれ?」
 空みたいに真っ青な瞳で僕を見上げながら、アリスが尋ねてきた。僕は返答しようとしたけれど、声帯が凍り付いたみたいに、何の音声も発することができなかった。ほんとうに、僕は誰だったのだろう?僕の名前は、いったい何だったろうか?
 ふと、ひとかたまりの言葉が、というより音声が、僕の口腔に到来した。僕が放つことのできる単語は、それだけだった。その滅裂な音声のもたらす意味について、僕は何も知らない。だけどただ僕はアリスに答えるために、その音を口にするよりほかになかった。
 僕は答えた。
「スイヒラリナカニラミ」
 その瞬間、僕の足下で跳ね回っていた革命ウサギはぴたりと運動をやめ、丸い目をさらに真ん丸にして僕の顔を見上げた。それから、きはっ、と笑うと、どこかへ逃げていってしまった。その代わり僕の右手には、小さな刃物が握られていた。キウイの皮くらいは剥けそうな、ごく小さなナイフだ。その刃がぬめっとした感じの黒色をしていて、僕はそれに何か微小な違和感を覚えた。
 アリスが手を差し出し、僕の持っているナイフの刃先に、ちょん、と触れた。それは挨拶みたいだった。だけどその瞬間、僕のナイフは牛刀ぐらいに大きくなって、それから瞬く間に物干し竿ぐらいの大きさになって、ついには高層ビルディングぐらいの大きさになった。ナイフは天井のブラウン管に触れて、きいっという不快な音を立てた。
「スイヒラリナカニラミ」
 アリスは僕の言葉を反復した。
 それは何か魔法の呪文なのだろうか?スイヒラリナカニラミ。アブラカダブラ、チチンプイプイ、パイポパイポパイポのシューリンガン。ともかくもそのせいで、僕のナイフはこんなにも大きくなってしまって、キウイの皮を剥くのにも、リンゴの皮を剥くのにも、アリスの衣服を切り裂くのにだって、まったく不都合だ。
「大丈夫。戦えるわ」
 僕の隣に立ち、ナイフを握った僕の手の上に自分の手を乗せて、アリスが言う。
「さあ、勇気を出して。あなたのその剣は、ファルシオン。何だって切り裂くことができるわ。どこへだって行ける、あなたの思うままに」
「本当に、どこへでも行ける?」
 僕は不意に尋ねる。
「それは、あなたの勇気次第」
 アリスの返答を聞いて、僕はごくり、と唾を飲んだ。その音がやたらと高らかに響きわたって、向こうの山脈にぶつかったごくり、が、こだまになって返ってくるほどだった。どこへでも行ける。だけど、どこへ行こう?
「向こう側だ」
 僕はそう確信した。
「向こう側へ行こう。この世界の向こう側。アリス、僕はこの世界の硬い外殻を破って、向こう側へ、ずっと向こう側へ行きたいんだ。それが、僕にできるだろうか?」
「大丈夫。あなたは、戦える」
 その言葉を聞いて、僕はナイフを、もうその先端が見えなくなるくらい巨大化したナイフを、ぶぅん、と振り下ろした。その軌道上にいた不運な猫が胴体を真っ二つにされ、スーパーで半身に切られて売られている魚みたいに、哀れに転がった。だけどそれはにやにや笑いの他に何もない透明な猫だったから、切り口からどろりと流れ出してきた内臓もまた、透明なのだった。
 僕のナイフは地面にぶつかって、きぃん、とまた不快な音を立てた。それから、世界が揺れ始めた。世界が揺らいでいるのだから、これは何かのはじまりなのだ、と僕は確信した。
「ハジまりだワ、ハジまりだワ」いつの間にか戻ってきた革命ウサギが、アリスの肩に上って、そう叫んでいた。「ロムルスとレムスの頃から、カインとアベルの頃から、ハジまりはいつだッテ暴力なのだワ。スペードスペード、スペードのエースは、イザって時には役にタタない、男根!革命、革命だワ」
 だけど本当にそれは望まれるべき何かのはじまりなのだろうか?僕は突然不安になる。これほど世界が震えているのに、僕らの足下に広がる茫漠たる大地には、ひび割れのほんの一つもついていなかった。それでこの世界は相変わらず強固で、僕らはこの重力圏から脱出するすべをまだ知らないのだと覚った。
「革命」アリスが短く、そう呟いた。