スイヒラリナカニラミの伝説
(06/32)

〈一九九七年五月二八日〉


 目が覚めるとそこに、里佳の鼻の穴があった。まだ起きるには少し早い時間だったけれども、僕は看守の目を盗んで脱獄する囚人のように、ベッドから抜け出して深呼吸をした。ふと視線を下の方にやると、申し訳なさそうにうつむく僕のペニスがあって、それで僕は何やらいたたまれない気持ちになって、服を着るより先にシャワーを浴びることにしたのだった。
 バスルームで、四〇度くらいのほどよい温水のスコールに打たれながら、特に体を洗うでもなくぼうっとしていると、突如何の前触れもなく、里佳がバスルームに闖入してきた。里佳はボディソープを泡立てながら、しきりに乳房を僕の腕へすりつけてきた。
「お客さん、こういう所は初めて?」
 それが里佳なりのジョークであると理解できたから、僕は精一杯の愛想笑いを返した。だけど正直なところを言えば、笑いたい気持ちなんて僕の脳裏には、ほんの微量さえもわき上がってきていなかった。


 長年連れ添った夫婦みたいにごく自然に、僕はコーヒーを淹れ始め、里佳は新聞を読み始めた。いつものマグカップにいつもどおりコーヒーを七分目、それから二人で隣り合ってテーブルに着く。しばらく無言でコーヒーをすすっていた里佳が、ふと、手を止めて、あまり大きくない目をぱちくりさせて、僕にこう尋ねてきたのだ。
「ねえ、ミルクある?」
 今度は僕が目をしばたたかせる。だって里佳は、コーヒーはいつもブラックと決めているはずなのだ。急に好みが変わることがあるんだろうか、それとも、僕は何かコーヒーの淹れ方を間違えて、いつもとまったく違う味にしてしまったのだろうか?だけど僕が自分で飲む限り、それはいつもとまったく同じ味のコーヒーなのだった。
「あるけど。珍しいね」
「そうじゃないの」軽く首を振って、里佳は笑う。「ほら、お客さん」
 里佳は窓の外を指さす。ガラスの向こうにはベランダがあって、そこには、エアコンの室外機と今は何も植わっていない鉢植えと、それから――それから、今まで見かけたことのない、薄汚れた灰色の塊が見えた。
 それは一匹の野良猫だった。僕の住むマンションの部屋は一階だったから、ベランダに野良猫が入り込むことがあったとしてもそんなに不思議ではないし、そのことに里佳が多少の興味を示したからといって、僕が特段珍しがる理由は、何もなかった。
 だけどそれより何より、僕の目と関心を引いたのは、猫の右目の上にある、大きな傷跡だった。毛皮が裂け、肉が抉れて、しかもそこがひどく化膿して、低予算で作ったお化け屋敷の人形みたいに、不気味な、しかしどこか滑稽な形相をしていたのだった。
 里佳は冷蔵庫を勝手に開けてミルクを取り出し、平たい皿に移してやって、ベランダに置いた。
「ねえ、見て。この子、すごい不細工」
 そう言って里佳は笑う。一緒になって笑う気には、僕はなれなかった。猫は皿の中に顔を突っ込んで、行灯の油を舐める化け猫みたいに、ぴちゃぴちゃとミルクを舐め取っていた。この猫は自ら望んで不細工になったわけではないだろう、と僕は思った。どうしてこんな、ひどい傷を受けなければならなかったのか、もし猫の言葉が分かるなら僕は猫に問いただしてやりたい気持ちだった。だけどそんなことはお構いなしに、猫は僕がそこにいることさえ気づかない風で、ミルクを舐めているのだった。
「おおよしよし、お前はほんとうに不細工だねえ。まるで、里佳そっくりだ」
 そんなことを言いながら里佳は、猫の喉元を撫でてやっている。猫はもうすっかり満腹した様子で、大人しく里佳に撫でられるがままなのだった。人間に対しまるで警戒の様子を見せないその猫は、案外誰かの飼い猫だったのかもしれない、と僕は勝手に想像した。だとすると、飼い主の庇護を離れ野良猫生活を送るようになってから、彼を襲った苦難は並大抵のものではないだろう。目の上に大きな傷などこしらえてしまったのも、そうした苦難のせいなのかもしれなかった。
 そのうち、携帯電話がぴるるるるん、と電子音を鳴らした。何か里佳が特別の思い入れのある音楽を着信音にしているらしかったけれども、僕にはそれはやっぱり機械的なベルの音にしか聞こえないのだった。里佳が僕と話す時とは明らかに違う声で、電話の向こうの誰かさんと話を始めた。聞かないのが礼儀だし、特段話の内容を聞きたいとも思わなかったから、僕は里佳を放ったらかしにして、猫を観察していた。
「ごめん、呼ばれちゃったからもう帰るね」
 猫は毛づくろいを始めた。もとより彼の毛皮は繕いようもないくらいぼろぼろで、どんなに必死で舐めたところで、もはやこれ以上きれいにはならないように思えた。
 前脚から腹、股間の辺りと、猫は器用に全身を舐め上げていく。ひとしきり毛並みの手入れが終わると、猫は小さく欠伸をして、それから硬いベランダで縮こまるように手足を丸め、居眠りを始めた。それで僕はようやく部屋の方に振り返り、里佳が既に帰ってしまったことを知ったのだった。
 猫がすっかり寝入ってしまうと、僕はとても退屈だった。携帯電話の着信メロディを入力しようとしたが、その退屈な作業はほんの二フレーズくらいで挫折した。通信に使用されていないときの携帯電話は、とても空虚で冷たい金属の塊だった。