スイヒラリナカニラミの伝説
(07/32)
〈一九九九年七月一九日〉
ふと気がついたので僕は真秀に、きれいな爪をしてるね、と言ってみた。そんなことを言われたのは初めてだ、と真秀は笑った。だけど実際、真秀の手指の爪は、とても美しかったのだ。マニキュアなど塗っていない、それどころかろくに磨いてもいない子供らしい真秀の爪は、桜貝みたいで可愛らしいのだった。
真秀の指もまた子供らしく、細くて短い。そんな小さな真秀の手が、僕のペニスに添えられている。僕のペニスをまったく事務的にしごきながら真秀は、今日は手だけでいいの?とこれもまったく事務的に尋ねた。手だけでいいよ、と僕は答える。実際僕は、ペニスに与えられる刺激の種類の違いには大した興味はなくて、ただ、そうした非生産的な行為に従事する真秀の姿を見ていたいのだった。
今日の真秀は夏らしく薄手のキャミソールに、スリムジーンズだ。眼鏡もかけたままで、そのせいかどこか退屈そうに、何か他の事を考えているように見える。実際、何か他の事を考えているに違いない、と思った。
僕が射精する寸前に真秀はティッシュペーパーの箱をたぐり寄せ、ティッシュを何枚も重ねて亀頭を包み込んだ。それから僕は射精した。真秀は僕の精液を一滴残らずティッシュで受け止め、さらに、陰茎の隅々まで丁寧に拭いた。手慣れたものだ。そして僕はきわめて事務的に、手っ取り早く片付けられる。
僕は真秀に二千円を渡す。真秀はいつもの儀式、すなわち紙幣に一枚ずつキスをして、丁寧に財布にしまった。それから真秀は、たった今財布に入れたばかりの二千円をすぐに取り出し、テーブルの上に置いて、言う。
「ねえ、今度はあたしの番」
僕らの契約は至って単純だ。一方がサーヴィスを提供し、他方が対価を支払う。支払いは常に貨幣で履行される。それは最も原始的な資本主義のスタイルで、税金も金利も手数料も介入しない、市場原理の暴風雨から避難することのできる、小さな温室なのだった。
真秀はテレビを見ていて、僕は宿題をやっている。高校の英語の教科書だ。英語の宿題は一ページにつき千円、と二人の取り決めで定められていた。丸々二ページの英文を三十分で和訳し終えると、僕はシャープペンシルを置いて、お茶を淹れ始めた。真秀は僕の書いたノートにざっと目を通して、それからまたすぐにテレビに戻った。
紅茶の入ったマグカップを受け取り、真秀はしばらくテレビを見ていた。僕が真秀の隣に座って、それからややあってから、真秀は少しくすぐったそうに笑って、こう尋ねてきたのだ。
「もう一回、しない?」
「しないよ」
テレビからなるべく目をそらさず、僕はそう答えた。
「今度は、お口でしてあげるよ」
「別に、今はしてほしくない」
「……ふーん」
真秀はそれ以上営業活動を行うことはせず、再びテレビ鑑賞に復帰した。
夕食時のバラエティー番組が終わって、夜のニュースが始まる頃に、僕たちのお茶が尽きた。真秀は財布の中を覗き込んで、淹れすぎたお茶みたいに渋い顔をした。小さくため息をついて、千円札を一枚だけ取り出し、名残惜しそうに一回キスをしてから、真秀はその千円を僕に手渡した。
「もう一ページだけ、お願い」
「了解」
僕は再度シャープペンシルを握った。
真秀が僕のペニスを触り、僕が真秀の高校の宿題を代行して、そうして千円札は僕らのミクロな経済世界を行き来する。この世界はきっとこんな風にして始まったのだろう、と僕は思った。それはとても単純な法則に支配された社会構造であったから、だからこそこんなに堅固なのだ、と理解した。
「よく、そんなにすらすら解けるね」僕の手元を覗き込んで、真秀が言った。「結構難しいと思うんだけどなぁ」
「難しいよ、確かに」
僕はそう答えた。実際、真秀の抱えてくる宿題はなかなか手強くて、時折一ページ千円という価格も値上げを考えるくらいなのだ。だがとにかく、僕は英文を読み続ける。それこそが僕の二十余年で身に着けた唯一のスキルであり、まったく僕ときたらこれ以外に能がないのだった。
「センター試験とか、受けた?」
空っぽのマグカップに口をつける動作だけして、真秀が尋ねてくる。
「受けたよ、もう何年も前に」
「何点ぐらい取れた?」
「――六百六十六点」僕は即答した。「忘れようのない数字だ」
「確かに」
真秀は立ち上がり、勝手にやかんを火にかけ、勝手にお茶を淹れ始めた。
「センターでそれくらい取れても、別段どうなるってわけじゃないのね」
「悪かったな」
真秀の言いたいことは、それなりに分かるつもりだ。彼女は僕が五、六年前に悩んだのと同じようなことに煩わされている。僕らはもはや受験勉強に逃避することすら許されないくらい、退屈な世界に生きている。そして真秀の言うとおり、かつて、現在の真秀より格段にいい成績で受験戦争を切り抜けたこの男は、いまや数千円の金銭と引き換えに真秀にペニスをしゃぶらせる、途方もなく退屈な人間になったのだった。
「はい、おしまい」
そう言ってシャープペンシルを置き、僕はノートを閉じて真秀に返した。それから真秀は眼鏡を外してテーブルに置き、身を乗り出してきて、僕の頬にそっと触れるだけのキスをした。それから手のひらをにゅっと突き出し、言った。
「――千円」
「それじゃ、押し売りだよ」
真秀はぺろっと舌を出して、ごまかすように笑った。最初から、これでお金がもらえるとは思っていなかったのだろう。眼鏡をかけ直し、教科書とノートを学生カバンに放り込むと、真秀は僕の部屋を出て行った。急に静かになった部屋で、僕はただゆっくりと、カップとティーポットを洗い始めた。