スイヒラリナカニラミの伝説
(08/32)
〈二〇〇一年XX月XX日〉
そこはねっとりと生温く、酸っぱいにおいの漂う空洞だった。まるで先が見えないものだから、僕は手探りで進んでいかなければならなかった。だけど壁に手を触れるとぬるりとした粘液質の触感があって、僕はすぐにでも引き返したくなるのだった。
「怯えることはない。お前は、ここで生まれた」
ビッグ・マザーの圧倒的な声が響いた。僕はもうほとんど腰を抜かしてしまった感じで、その場にうずくまって、ごめんなさい、ごめんなさいと、繰り返し呪文のように唱えるだけだった。額を床面に擦り付けるようにした拍子に、ぶよぶよした床が口に触れた。とたんに発酵したような、生臭く塩辛い味がして、それで僕は、ああ、ここはヴァギナなのだ、と理解した。
それから僕は頭をフル回転させて、何とかここから逃げ出す術を考え始めた。このまま、うずくまったままお尻の方からじりじりと後ずさっていけば、安全に逃れられるのではないか。そんなことを考えた。だけどビッグ・マザーは僕のそうした思念をすべて感知している風に、こう言い放ったのだ。
「どこへ行こうとしても無駄だ。結局お前は、私の膣に、そしてさらにその奥へと回帰する。生まれ育った水の呪縛から決して逃れられない、哀れな鮭のように」
まったく僕は、ビッグ・マザーの前ではどうしようもなく無力なのだった。そう言えば僕はその手に何も持たず、服の一枚さえ身に着けていない、まったくの裸んぼうだ。コインの一枚さえも所有しない僕が、どうやったってビッグ・マザーに勝てるはずがない。
――いや。
財布も持たない僕が、唯一携帯していたのが、ナイフだった。僕の右手にはちっぽけなナイフが一本だけ、握られている。
「私を受容しなさい」声が響く。「そうすればお前を温かく抱いて、乳を含ませてやろう。それがお前にとってもっとも幸福な選択なのだ。躊躇うことはない」
その通りだ、と僕は思った。それなのに僕はどうして、こんなナイフなんか持っているのだろう。こんなものを大事に抱えているからいけないのだ。このナイフさえ捨ててしまえば、万事が上手く進むのだ。そう思って僕は、どこか遠くへナイフを放り捨てようと、大きく振りかぶった。
その時だった。
「――いけない!」
突然僕を咎める声が聞こえたものだから、僕は今まさに投げ捨てようとしていたナイフを、どうにか手元にとどめ置いたのだった。間違いない、その声は、紛れもなくアリスだった。
「その剣を捨ててはいけない。だってそれは、ファルシオン。あなたを解き放つ唯一の可能性、そうでしょう?」
剣?これが剣だって?僕の手にしたファルシオンは、だってスイカを切るのにだって不十分なくらい、ちっぽけなただのナイフだ。こんなものが果たして、僕を解き放つ可能性なんかであるものだろうか。だけどアリスは僕の耳元で、吐息がかかるくらいすぐ近くで、囁く。
「諦めないで。あなたはまだ、戦える。あなたを縛る鎖を、その剣で断ち切るの」
不思議な感触だった。アリスの声を聞いていると、少しだけ戦う勇気が湧いてくるような気がした。全身の血流が急速に活発になり、手足に力がみなぎってくる。さっきまでほんの小さなナイフだったファルシオンは、確かに剣と呼ぶべき大きさになっていたから、両手で持たないと支えきれないほどだった。
アリスがふっと囁いた。
「革命」
その声と同時に、僕はファルシオンを力任せに振り下ろした。
裸足の指が土を噛んでいた。僕が立っているのは、茫漠たる荒野だ。僕は相変わらず携帯電話さえも持たず、丸裸なのだった。草木も生えない赤土だけの原野が、地平線までどこまでも広がっている。ひゅう、と風が吹くと、僕の股間でペニスだけが申し訳なさそうに揺れるのだった。もう、アリスの姿はない。だけど僕は、ビッグ・マザーの支配領域から、逃げ出すことができたのだろうか?
「きははははは、ははは」
馬鹿にしたような笑い声が、足元から上がった。見るまでもなく、それは革命ウサギだと分かった。革命ウサギがいるのなら、アリスも近くにいたってよさそうなものだけれど、どうやら僕の見たところ、ここには僕とウサギの他に、生きているものは何もいないようだった。
「おい、革命ウサギ。アリスはどこに行った」
僕は尋ねた。
「ハジけるんだワ、ハジけるんだワ。膨らましすぎた風船みたいに、パァンって破裂。スペードのジャックがパァンって割れて、十一個の男根。そんでもって、やっぱり革命なのだワ」
相変わらず革命ウサギは、僕の話をまるで聞いていないのだった。それで僕は腹が立って、今度こそ革命ウサギをとっ捕まえて、目にもの見せてやろうと思ったのだ。だけど僕が飛びかかると、ウサギは僕の腕の中をウナギみたいにするりと抜け出し、相変わらず人を小馬鹿にした笑いを向けるのだ。
「お前は逃げられないよ」突然、天井のブラウン管をびりびりと震わせて、ビッグ・マザーの声が響いた。「お前は、私なしでは生きられないのだ。お前は私の内なる水に育まれたのだから。ここは、完成された世界だ。お前の関与する余地はない。私がお前のために、戒律を与えよう。それに従うことが、お前の最上の幸せなのだ」
その声を聞いて僕はしばらく、雷に打たれたように立ち尽くしていた。革命ウサギはすいすいと僕から遠ざかり、振り返って前歯を見せて、きはっ、と笑った。走り去っていく革命ウサギを後ろから見ると、後脚の間に、ごく小さなヴァギナがぷっくりと膨らんでいるのが見えた。