スイヒラリナカニラミの伝説
(09/32)

〈一九九九年七月二〇日〉


 その日は仕事が休みで、僕は昼過ぎに起き出してきて、昼食のスパゲティを茹でていたのだった。スパゲティの芯が消えかかった丁度いいタイミングを見計らったように、携帯電話がぴろりろん、と電子音を鳴らしたものだから、それで僕は少し不機嫌になった。電話ではなくメールの着信音だったから、僕はブランチを食べ終えるまで、放っておいたのだった。
 それからおもむろにメールを受信し、読む。果たして予想した通り、真秀からのメッセージだった。そもそも僕にメールなんか書いてよこすのは、もはや真秀しかいないのだけれど。彼女の文面はいつだって必要最低限なのだった。今回は、こんな感じだ。

   カネない(生理中)

 まったく色気のない文章だったけれども、それは小さな娼婦の立派な営業文句なのだった。やれやれ。無視しても構わないのだし、僕だってそんなに性的な欲求が募っているわけではないのだけど、それでも僕は真秀にメールを返してしまう。特段理由はなく、ただ、退屈だから真秀の遊びに付き合ってやっているというような、そんな心境だった。

   脱がずに口だけ五千円

 僕のメールがそっけない文章になってしまうのは、単にあの小さなボタンで長い文章を打ち込むことができないからだった。別段メールで連絡を取り合うことの必然性はなくて、直接電話して話せばそれで済んでしまうことではあるのだけれど、双方の時間と空間に不必要に立ち入らない点で、メールは電話より優れたコミュニケーションツールであると思った。実際今日だって、真秀からの連絡がメールだったからこそ、僕はスパゲティの食べ頃を逃さずに済んだのだった。
 おそらく一時間もしないうちに、真秀が僕のマンションに来るはずだ。僕は着替えて髭を剃り、それから食器や鍋を洗い始めた。ひと通り片付くと、あとで飲むだろうお茶を選びながら、真秀が来るのを待った。


 ごくん、と音を立てて、真秀が僕の精液を飲み下す。真秀は僕のペニスを一滴も精液が残らないくらい丁寧に舐め、それから、ティッシュで軽く口元を拭った。それからいつものように、眼鏡をかけて、新渡戸稲造にキスをした。
「ねえ、この本読んだ?」
 先程まで僕のペニスを飲み込んでいた口が、もう別の言葉を吐き出し始めていた。僕はベルトを締め直しながら、真秀がカバンから取り出したその本に視線をやる。それが最近マスメディアでちょっとした話題になっている本であることは知っていたけれど、実際に読んだことはなかった。
「面白いの?」
「わりとね」僕の素朴な質問に真秀はそう答えて、何か含んだところのあるような笑いを浮かべた。「何もかも危険だ、って言ってるの、この本。例えばあんパン、シャンプー、ハンバーガー、避妊フィルム。みんな人体に害を及ぼすから、買っちゃ駄目なんだって」
「避妊フィルム?」
「面白いよ。ちゃんと、実験してるの。避妊フィルムをウサギの膣に入れて、何時間も観察するの。そうしたら、真っ赤に腫れたりただれたりしたんだって。だから、体に悪いから、使っちゃ駄目なんだって、そう書いてある」
「それで真秀は、避妊フィルムは買わないことにするの?」
「まさか」
 真秀は手にしていた本を、後方にぽい、と放り捨てた。
「だって避妊フィルムを使うときなんて、体に悪いとかそんなこと考えてられないときだと思わない?望まない妊娠しちゃうより、ヴァギナが炎症起こす方がずっとマシだよ。だけど、こうやって真面目にこれは人体に有害だ、これは買っちゃいけない、とかっていちいち検証してるのが、何だか面白くって」
 真秀の話の後半部分は、僕はもう聞いていなかった。その時僕は、ヴァギナに避妊フィルムを押し込まれて実験台にされた、哀れなウサギのことを考えていたのだった。膣が赤く腫れ上がったウサギ。だから僕らは避妊フィルムを使ってはいけないのだという。
「だけど、ウサギの膣は小さすぎる」
「なに?」
 真秀が訝しげな顔をして、それで僕は自分が思ったことをうっかり口に出していたことに気づいた。ただ僕は、人間用に薬品の量を調整された避妊フィルムは、小さすぎるウサギの膣には有毒であるのが当たり前だ、とそう思ったのだ。
 それから僕は真秀の短すぎるスカートに目をやった。生理中だとか言っていたくせに、不用意に脚でも動かそうものならショーツが見えてしまいそうな、やたらに短いスカートを真秀が穿いているのは、夏の暑さのせいだけではないと思った。――真秀のヴァギナもまた、ウサギのように小さいのだろうか?
「ねえ、見てよ」さっき投げ捨てた本をまた拾って、真秀が言う。「ハンバーガーばっかり食べて、ジーンズなんか穿いてると、精子の数が少なくなるんだって」
「それはいいことを聞いた。早速今夜から、ハンバーガーを食べるよ」
 本心から僕はそう答えた。僕の形質を受け継いだ子供なんかが、なるべく誕生することのないように、と。そのためならたとえペニスが腫れ上がろうが、避妊具を使うだろう。人体に有害な、ましてやウサギや真秀の小さすぎる膣にはますます有害な、避妊具を。


 午後から夕方にかけてはさすがに蒸し暑かったから、僕らは冷たいお茶を淹れて、飲んだ。それがあまりに平和な空間と時間だったからだろうか、真秀は不意に、ひとつのお伽話を口にした。世界のおしまいの話だ。
「今月、世界が滅亡するんだって」
 軽く微笑さえ浮かべながら、真秀はそう言った。あと十日やそこらしかないのに、それでも世界が滅ぶのは、どうしても今月でなきゃいけないのかな?そんなことを軽い口調で話す真秀の様子からは、それはどうしたって他人事のようにしか聞こえなかったし、世界が滅亡するなんて言ってもそれは、どこか別の、僕らのこの世界とは決して交わることのない別次元の世界の話ではないか、と思った。
 お茶はとても美味しくて、こんな時にゆったりと世界の滅亡の話を、どこか遠いところを見ながら口にしている僕らが、ふと、何かに似ている、と僕は感じた。だけどそれが何であるかは思い出せず、ただ耳の奥のどこかずっと深くで、からから、という澄んだ音が鳴った、ような気がした、だけだった。
「もし本当に、あと十日で世界が滅亡するとしたら、何をする?」
 真秀が尋ねる。ハンバーガーを食べるよ、と僕は答えた。ハンバーガーを食べ、ジーンズを穿いて、膣もペニスも腫れ上がる有害な避妊フィルムを使って、セックスをするだろう。それは僕なりに考えたジョークのつもりだったのだけど、真秀は笑わなかった。真秀の感性に問題があるというよりは、僕の冗談のセンスに問題があるのだろう。
「真秀は?」僕は尋ね返した。「真秀だったら、今月世界が滅ぶとしたら、残りの十日間で何をする?」
 真秀は少しだけ何かを考えている風だった。それから、軽く首を傾げて、よく分からない、というような顔で、こう答えた。
「滅亡の前日に自殺する」
 それは僕が口にしたジョークよりも格段に出来がいい、と思ったから、僕は軽く笑った。そうしたら真秀に、エアコンの送風口よりもうちょっと冷たい目で睨まれた。どうやら、冗談ではなかったらしい。
 真秀の視線をかわしながら僕は、世界の滅亡についてゆったりと空想を始めた。本当は僕も真秀もこの世界が滅亡などしないことを知っていて、そのおかげで僕らは滅亡の光景を思い描くことができるような、そんな感じがした。心のどこかで、僕は世界の滅亡を願っているように思った。だけどそれはどうしたってお伽話の域を出ない、荒唐無稽な絵空事に過ぎないのだった。