スイヒラリナカニラミの伝説
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〈一九九七年五月三〇日〉
「猫の名前は、すいかにしようと思うの」
午前三時に里佳が電話をかけてきたから何事かと思えば、第一声がそれだった。だけど僕は吸血鬼でも夜行性のコウモリでもなかったから、猫の名前よりも睡眠の方を脳が要求していた。だから、それはよかったね、とでも答えて電話を切ろうと思ったのだけど、その時ふと何か不可解なものを感じて、それで僕は真剣に尋ねてしまったのだ。
「猫って?」
「この間の猫よ、あの不細工な」
里佳はうふふ、と笑った。僕の頭はまだ何か少し眠っているらしく、里佳の話について行って適当な受け答えをするには、少々余分な時間がかかるのだった。右目の上にひどい傷を負ったその猫の面構えを僕が思い出した頃には、里佳はもう次の言葉を口にしていた。
「だって、縞模様で、丸っこくってさ、西瓜みたいだなぁって思ったの。ねえ、いいでしょ。すいかって名前。なんか可愛いと思わない?」
件の猫が西瓜に似ているかどうかも疑問だったし、猫にすいかなんて名前をつけることについても異論がないわけではなかった。そもそもあの猫に名前なんかつけてやる必要があるのか?いろいろな疑問がいっぺんにわき上がって、そのせいで僕はかなり混乱して、何から喋ればいいのか分からなくなって、結局、ひどく見当違いな問いを発したのだった。
「冬はどうするんだ?」
「別にいいじゃない」
何を馬鹿なこと言ってるの、とでも言いたげに、里佳は鼻を鳴らす。実際、馬鹿なことを言っているな、と自分でも思った。
「すいかって名前だからって、どうして冬に困ることがあるの?いいじゃない。冬にすいか、すいかって呼んであげれば、きっとみんなあったかい気分になって、幸せになれるわよ」
「そんなものかな」
僕は軽く首をひねったが、その動作は電話の向こうの里佳には見えていない。異論がないのを肯定と受け取ったらしく、里佳は猫に関する話題をさっさと切り上げて、もう次の話に移ってしまった。
「それよりさぁ、聞いてよー。また彼氏と喧嘩しちゃったの」
「また?」
「だってさ、今度のは絶対あいつが悪いんだから。たった十五分遅れて行っただけなのにさ、十五分だよ?自分だってしょっちゅう遅刻してるくせにさ、里佳が遅れて来るとすっごい怒るの。なんか納得いかないと思わない?」
またいつものが始まった。そう思って僕は、話を聞かないモードに頭を切り替えた。適当にふんふんと相槌を打ちながら、肩と耳の間に携帯電話を挟んで、コーヒーを淹れ始めた。コーヒーメーカーがしゅんしゅんと湯気を立て始めたら、床の上に投げ捨ててあった求人雑誌を拾い上げ、特に熱心に読むでもなくぼうっと目を通し始めた。
「あー、やっぱりあなたが彼氏だったらよかった。ねえ、今からそっちに行ってもいい?」
「今から?」
壁の時計に目をやると、長電話の当然の帰結として、三時半を示していた。今から里佳が来るとなると、四時過ぎだろうか。空が白んでゆく頃に、きっと僕らはセックスをすることになる。きわめて不健康な今後に思いを馳せながら、僕は電話を切った。それから、里佳が来る前に、せめてシャワーは浴びようと思った。
猫の名前はどうやらすいかに決まったらしい。だけど、肝心の猫はいったいどこにいるのだろう。僕はバスタオルで頭をごしごしとこすりながら、窓を開け放ってベランダの外を眺めていた。そこに、すいかが再び現れることがあるのだろうか?窓の外はもうそろそろ明るさを取り戻しつつあり、こんな時間に僕を叩き起こした当の里佳はまだ来やしない。
真っ赤で瑞々しい西瓜のことを考えていたら、ひどく喉が渇いていることに気づいて、それで僕は入浴前に作ったコーヒーを飲んでいなかったことを思い出した。テーブルの上で所在無げにしていたコーヒーメーカーの傍らに立ち寄り、そして僕はふと、同じテーブルに放置されていた携帯電話に視線を落とした。
メール着信あり(03:57)
僕がシャワーを浴びている間に、誰かが僕の携帯に向かって、不穏な電波を飛ばしたらしい。里佳だろうか?いや、里佳ならメールなんて迂遠な手段を使わず、直接電話をかけてくるだろう。ともかくも僕は、メールを受信して、読む。果たして件名は無題、送信元は不明。
スイヒラリナカニラミ
そして僕は再びあの不可解なメッセージに巡り会った。
いったい誰が、こんなメールを僕に送りつけてくるのだろう?僕は不可解に思うだけではなく、不愉快にすら感じている。僕の理解や接近を拒絶する、法則性を欠いたその文字列は、どこか僕を馬鹿にしているように思えて、それで僕は中学生が喧嘩をする前みたいに、上目がちに睨み付けた。もちろん、携帯電話の液晶画面に映るそのメッセージをだ。自分のやっていることの馬鹿馬鹿しさに気がついて、ようやくその不毛な戦いから手を引こうとしたとき、僕はふと、そこにすいかを発見した。
スイヒラリナカニラミ
得体の知れないヒラリナに邪魔されてはいるものの、すいかはその中に確かに隠れていた。しかも僕を睨み返していた。思えばすいかの目の上には深い傷があって、それは彼の勇猛さの勲章であるのかもしれなかった。睨み合う僕とすいかの間では、もう火花が散るくらいで、だけどヒラリナって何だ?お互いに飛びかかる隙を窺っている僕らの間で、何とも間の抜けたヒラリナが、ひらりなひらりなと、すべてを台無しにしているのだった。
だけど僕はなるべくそのヒラリナを見ないようにして、ただひたすらスイカとニラミあったのだった。僕らの前には夕暮れ時のガンマンみたいな空気が横たわっていて、今まさに銃だかナイフだかを抜こうとした僕の目の前で、携帯電話はぴるるるる、と緊張感のない吐息を漏らしたのだった。里佳からの電話だった。
「ごめんねー、遅くなっちゃって。今、そこのコンビニのとこの交差点。うん、だから、もうすぐ着くんだけど。今信号渡って、ケーキ屋さんの横道入るとこ……うん、もうあなたの部屋の前。だから、一旦切るね」
同時にぴんぽん、と呼び鈴が鳴る。つい目を逸らしてしまった携帯の液晶画面に視線を戻したけれど、そこにもうすいかの姿はなく、ただ無意味な文字列であるスイヒラリナカニラミが残っているだけだった。
「やだ、なに、その格好」
里佳が笑う。僕はシャワーから出た時のまま、バスローブを着て、タオルを肩にかけているだけの姿だった。脱がせる手間がなくていいね、と言って、里佳はポルノ映画の男優みたいに官能的な手つきで、僕のバスローブをするりと脱がせた。それから、僕にキスをする。おとなしくキスをされながら僕は、自分だけが服を脱いでいて里佳が服を着ているのは不公平だ、なんて思っていたけれど、それでも里佳の手がペニスに触れると、僕は簡単に勃起するのだった。
セックスが終わると里佳は一人で先に寝てしまった。それで僕はベランダの外にすいかの姿を探したけれど、彼の気配はどこにも感じられなかった。仕方なく僕はコーヒーを淹れ直して、テレビをつけて朝のニュースを見ながら、求人雑誌を開いた。こんなに分厚い雑誌に丸ごと一冊分も、この世界には仕事が満ち溢れているというのに、僕はこの数か月ばかり、アルバイトのひとつすら見つけられずにいるのだった。