スイヒラリナカニラミの伝説
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〈一九九五年三月二一日〉
昨日の話をしようと思った。何から話せばいいのか分からなかったけれど、とにかく昨日のことについて、何か、何とかして言葉を発することをしなければ、僕はもう二度と口を開くことができなくなるような、そんな気がしたのだ。だけど僕らはとにかく昨日地下鉄には乗らずに、都心を素通りして郊外へ出て、そこで何をするでもなく、ただ全国チェーンのハンバーガーを食べた。僕が話すことができるのは、それだけだ。
駅前は昨日とうって変わって静かで、風が吹くと道端に打ち捨てられた昨日の号外がかさかさ踊って、足元にまとわりついてくるのだった。まるで昨日世界が一度滅亡した、その先の光景を見ているようだった。だけど僕らはとにかく手を握り合っていて、それ以上二人の距離が近づくことも、また遠ざかることもないのだった。
相変わらず僕らの間には、減退に向かう平穏な空気が流れ続けている。だけど、目には見えないけれど、昨日どこかで僕らの信ずる何かが敗北したのだ。ねえ、信じられる?と彼女は尋ねる。すぐそこの駅の中で、そのへんの地下を走るチューブの内側で起こった出来事なのに、あたしたちはそれをまるでどこか遠い世界の出来事みたいに、新聞で読んでいる。
彼女の指先は少し冷たいのだけれど、僕が長らく握り締めていたせいか、少しだけ汗ばんできた、ような気がした。触れ合っている面積はほんの指先にすぎないのに、そのほんのわずかな接触を通じて、彼女の鼓動や吐息や体温を感じる。だから僕は彼女にこれ以上近づくことがなかなかできないのだ、と思った。
スクランブル交差点の信号が青になると、四方八方から一斉に人波が押し寄せてくる。僕らははぐれてしまうことのないように、しっかりと手を握り合いながら、人の群れの中に身を投じていった。
「あたしのこと、好き?」
交差点の中央で彼女が尋ねる。
「好きだよ」
雑踏にかき消されることのないよう、僕は大声で答えた。
僕らは交差点の真ん中に立ち止まり、抱き締めあってキスをした。だけど道を行く人々は、そんな僕らの姿なんかには見向きもしないのだった。だから僕らは人波が過ぎ去って、信号が点滅して赤に変わる直前まで、ずっとキスを続けていたのだった。そうしないと押し流されて漂流し、もう二度と会えなくなるような気がしたのだ。
この地上には酸素が足りないみたいだった。だから僕らは、通りに面した全国チェーンのドーナツショップに逃げ込んだのだ。だけどそれは不完全なシェルターで、僕らはオーダーしたドーナツに手もつけず、また質の異なる息苦しさの中で、まさに息を潜めていたのだった。
「粘土みたいね」
ドーナツを指先で弄びながら彼女が言った。まったくこの店内ときたらすべてが人工的で、それですべてがケミカルな味がするのだろうと思った。
僕らの世界は昨日と何も変わっていないように思えた――少なくとも表面的には。このドーナツを、日本全国どこで食べてもまったく同じ味のするドーナツを受容することができなければ、この世界で生きていくことはできない。僕らの前には機械でプレスされた、どれもまったく同じ大きさと形のドーナツやハンバーガーが整然と並んでいて、それは決して揺るぐことのない堅固なシステムであるように見えた。
「何が起こったっていうのかしら?」
彼女が首を傾げる。その問いに答えることのできる言葉を、僕は持たない。おそらく彼女は昨日の出来事を話そうとしているのだ、と思った。だけど僕の胸の奥には何か固く重いものが詰まった感じがして、言葉はおろか息を吐き出すことさえ困難なのだった。
例えば、二ヶ月くらい前に大きな地震があった。その時は僕はまだ少なくとも、なけなしの小遣いの中からいくらかを郵便局に持っていって、赤十字の義捐金募集の口座に振り込むことができたのだ。あの時は、まだ何が起こっているのか、遠く離れた東京にいても、おぼろげながら想像できる気がした。だけど今、本当に何が起こったのだろう?
ともかく何かが起こったのだ。だけどそれによって、ハンバーガーやドーナツのショップが滅亡するわけでもなければ、彼女が突然生物学者になってしまうわけでもなかった。それが不可逆的な変化であったとして、だがいかなる変化なのだ?
彼女が再度口を開いた。だけど酸欠の金魚みたいに二、三度口をぱくぱくさせただけで、結局何の言葉も発することなく口をつぐんでしまった。きっと彼女も僕と同じで、語るべき言葉が見当たらないのに違いない。
僕はようやくドーナツを口に運んだ。それはひどくばさばさしていて、やはり泥か粘土か何かを齧っているような気分になるのだった。