スイヒラリナカニラミの伝説
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〈一九九九年七月二一日〉


 今日の宿題は世界史だ。アラゴンとカスティリャ両家の婚姻について、三流の芸能ゴシップ記事みたいなレポートを僕がでっち上げている横で、真秀はアイスクリームを食べながら、テレビを見ていた。番組が面白くなかったのだろうか、真秀の興味はブラウン管の上から僕の手元へと移り、それから、机の上にある小さなガラス瓶に到達した。真秀はガラス瓶を手に取り、振った。からから、と澄んだ儚い音が鳴った。
「これ、何?」
 真秀が尋ねた。
「何だと思う?」
 僕は少し意地悪く、首を傾げてみせる。真秀はガラス瓶をぐるっと回して、全方位からくまなく観察し、それから困った風に、こんな答えをよこした。
「象牙か何か?」
「はずれ」
 僕は真秀の手から瓶を取り上げた。取り上げるときにまた、からから、と音がした。とても大事なものなんだ、と僕は真秀に目で訴えた。大事だから、やたらに君には触らせないよ。そう意思表示したつもりだけれど、うまく伝わっただろうか。
「じゃあ、何なの?」
 それ以上謎々遊びに付き合う気はないらしく、口を尖らせて真秀はそう尋ねてきた。答えを教えてほしかったら千円、なんて言ったら、真秀はどんな顔をするだろうか?だけど意地悪はそれくらいにして、僕は真秀の問いに答えてやることにした。
「恋人なんだ、僕の」
 僕の種明かしに真秀は納得しなかったらしく、露骨に眉を顰めた。
「彼女のことが、とても好きなんだ」僕はそう言って、自分の恋人のことを真秀に語ろうとした。だけどそうしたら、膨大な量の言葉が胸の奥にこみ上げてきて、嘔吐しそうなくらいになって、そのせいで僕は何も話すことができなかったのだった。
 真秀はもう僕の恋人には興味がなさそうに、アイスクリームのスプーンをくわえたままテレビの方に視線を戻した。僕もガラス瓶を軽く振って、からから、という軽やかな音を確認してから机の上に戻し、真秀のレポートに復帰した。


 彼女の手がとても美しかったことを思い出した。真秀のぷっくりとしたどこか子供らしい手もそれはそれで可愛いのだが、彼女の手はそんなのとはまったく違って、指なんかすらりと細長くて、また透き通るくらいに真っ白なのだった。そうだ。僕は彼女の手がとても好きだった。
 そして彼女の指は冷たかった。昼も夜も、夏も冬も。冷え性なのよ、と軽く笑う彼女。それから彼女はその冷たい指先で、僕の頬に触れるのだ。僕らのコミュニケーションは言葉と、それから指とを中心に行われていたのだ。そのことを僕は少しずつ思い出してきている。
「ねえ、何ぼうっとしてるの?」
 僕の手元を覗き込みながら、真秀が尋ねる。レポートの進行状況が気になっているというよりは、退屈で仕方ないから声をかけてみた、という様子だ。僕はシャープペンシルを放り出し、うん、と小さく背伸びをした。
「終わったの?」
「終わったよ。出来がいいかどうかは、分からないけど」
「職員室に呼び出されたりしなければ、別にいいよ」
 真秀はそう言って、机の上からレポートを拾い上げると、中身を確認もせずに鞄に押し込んだ。入れ替わりに取り出したのは財布で、さっきまでレポートが広げられていた机の上に、真秀は千円札を三枚、並べて置いた。
 僕はその紙幣に手を触れずにいた。それが僕の手を素通りして、再び真秀の財布の中に帰っていくことが分かっていたからだ。案の定、真秀は僕の背中にしがみつくようにして、僕の耳元に触れそうなくらい唇を近づけ、こう切り出してきたのだ。
「ねえ、恋人ごっこしない?」
「恋人ごっこ?」
「ただするだけより、その方が面白いでしょう?」真秀は邪気のない笑顔を向ける。「そんな得体の知れない何かのかけらが恋人だ、なんていうより、その方がきっと楽しいよ」
 ガラスの小瓶に入った彼女のことを言っているのだ、と僕にも分かった。それで僕は、何だか彼女のことを侮辱されているような気がして、少し腹が立った。おかげで好戦的な気分になった僕は逆に、この未熟な娼婦がどんな恋人ぶりを見せてくれるのか、見届けたいと思い始めた。
「いいよ。恋人ごっこ、しよう」
 僕のその言葉を号砲代わりに、真秀が動き始める。僕の膝の上に座って、身を乗り出してきて、キスをする。ぴったりと身を寄せ合って長い長いキスをしながら、真秀の考える恋人ってこんな感じなのかな、と僕は考えていた。
 唇がふっと離れると、真秀は思い出したように、眼鏡を外して机の上に置いた。それから至近距離で僕の目を見つめる。きっと眼鏡を外してしまったせいで、こうしないとよく見えないのだろう、と思った。それから、娘が父親におやすみの挨拶をするみたいに、ごく軽いキスをする。真秀は照れ隠しみたいに微笑して、それから唇を軽く舐めて湿らせ、少しだけ言いづらそうに、こう口にした。
「好き」
 真秀の恋人ごっこは、ずいぶんボキャブラリーが貧困であると思った。だけどそんな商品としての愛の告白に、返す言葉ひとつ持たない僕は、さらに貧しい世界に生きているのだ。僕は真秀に何も言わず、今度は自分から、キスをした。
 唇を重ねたまま、僕は真秀のブラウスのボタンを一つずつほどいていく。およそ健康的と言うべき真っ白なブラジャーが現れて、その背中に手を回し、ホックをぱちん、と外すその時も、僕はずっと真秀とキスをしていた。背骨に沿ってすっと指を滑らせると、くすぐったかったのか、真秀はびくびくと肩を震わせた。
 いつの間にか僕らはすっかり無言になっていた。結局のところ、たかが「ごっこ」に過ぎない恋人ごっこであっても、満足に言葉が紡げないくらいに、僕らの言葉は貧弱なのだった。何も話さずにいるせいで、真秀の鼻息や、舌の絡み合ってぴちゃぴちゃいう音や、中途半端に脱げかかった衣服の擦れ合う音なんかが、ずいぶんと高らかに聞こえた。
 僕は手のひらに少し汗をかいていた。別段緊張しているわけでもないのに、指が震えた。その指で真秀の背中から腰、尻に触れていって、太股をなぞりながら膝の方へ進み、それから折り返して太股の内側へと戻ってくる。スカートの中に指を滑り込ませる。ショーツの上からクリトリスとおぼしき場所に触れてやると、真秀の喉の奥から、ん、んっと、窒息したような声がこぼれた。
 そのまま僕は、真秀のショーツの内側へと侵入する。真秀の性器に、指先で直に触れる。ぬるり、とした感触があって、その拍子に僕の指は、思わず真秀のヴァギナにするっと入ってしまった。真秀のヴァギナは小さくて、僕の指は第一関節まで入り込んだところで、それ以上の前進を断念せざるをえなくなった。その時だった。
「……痛いっ」
 ごく小さな声で、真秀がそう漏らしたのだ。別段詰ったり咎めたりする風ではなく、ただ純粋に、痛みを訴えているだけであるような、そんな声だった。だけどその声を聞いた瞬間、僕は雷に打たれたみたいになって、身動きできなくなってしまったのだ。目の前が真っ暗になる。唇が震える。夏目漱石が三人横に並んで、ウサギと一緒にラインダンスを踊りだす。
「……どうしたの?」
 弱々しく尋ねる真秀の声で、僕はようやく正気に戻った。真秀は肉食獣と偶然遭遇した小動物みたいに、怯えたような、しかし何が起こっているのか理解できないような表情をしていた。僕は真秀のヴァギナから逃げ出すように離れて、軽くキスをし、それから、机の上に置きっぱなしだった三千円を真秀の手に握らせた。
「もう、遅いよ。帰った方がいい」
 真秀はしばらく千円札を握ったまま、ぼうっとしていた。無用に力が入っていて、千円札は真秀の手の中でくしゃくしゃになってしまった。ややあって真秀はようやく僕の膝から離れ、眼鏡をかけて、それから千円札の皺を丁寧にのばして、一枚ずつキスをして財布にしまった。
「ねえ、あたしは別に、しても、いいんだよ」
 まるで面倒くさそうに、のろのろとブラウスのボタンをかけながら、真秀が言う。僕は例によって曖昧に笑ってごまかすだけだ。ふと気づくと、真秀のボタンが途中から一段違いになっていて、それで僕は声を立てて笑った。笑われてようやくボタンのかけ違いに気づいた真秀は、唇を尖らせながら、間違ったボタンを再度外し始めた。