スイヒラリナカニラミの伝説
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〈二〇〇一年XX月XX日〉
尻餅をついている僕の鼻先をかすめて、弾丸列車が走り去っていく。金属製の小さなその箱には、容赦なく老若男女が詰め込まれていて、まったく人の上にも人の下にも人ばかりだ。
あの列車に乗れ、とビッグ・マザーが僕に命じる。お前はあの人々の一番上に乗り込むのだ。そうすればもっとも安全に、目的地まで、唯一絶対の目的地まで、到達できるだろう。だけど僕は勇気を振り絞って問い返すのだ。目的地って、どこ?
「謎々、ナゾナゾ。アリスのリドル」
革命ウサギが線路の上で跳ね回っている。そのまま列車に轢かれてしまえ、と思ったけれども、決してそうはならないこともまた、僕は知っていた。
「行き着く先はただ一つに決まっている。それこそが、この世界に残された唯一の固有性だ。だからお前はそこへ向かう、正しい道筋に乗らなければならない。私はその道を知っている」
ビッグ・マザーの巨大な手が迫ってきたから、僕は猫みたいに四つん這いで、走って逃げなければならないのだった。あの手に捕らえられたらそれこそ、ペニスを齧り取られてしまうかもしれないのだ。
「逃げるのだワ、逃げるのだワ、お皿だってスプーンと駆け落ちなのだワ。ヒラリー、エラリー、ハートのクイーン。あんタは切り札、スペードのエース。捕まる前に、ハジけちゃうのだワ」
僕の隣を悠々と並走しながら、革命ウサギが言う。そのまま僕を引き離しにかかった革命ウサギは、僕の視界から消える直前でわざわざ立ち止まって振り返り、きはははは、と笑った。
もはや逃げ場はどこにもなかった、足元にぽっかり開いた、底の見えない深い穴を除いて。だから僕はその穴に頭から飛び込むのだけど、ぽっこり膨らんだ僕のお尻がそこを通過するためには、体を小さくする飲み薬がどうしたって不可欠なのだった。僕は力任せにその穴に潜り込もうとするけど、どうしたって上半身が入ったところでひっかかってしまい、狭くて入ることも出ることもできなくなってしまう。
穴の奥底深くに、アリスがいた。――アリスは全裸だった。男の子とも区別がつかない真っ平らな胸に、薄い紅茶みたいな色の突起が張り付いている。脚の付け根には、毛の一本も生えていないまったく神聖なヴァギナが、頑固な二枚貝のようにぴったりと閉じ合わさっているのだった。
「こんにちは、いいお天気ね」
アリスが言う。穴の底でいい天気も悪い天気もあるものだろうか?だけど僕はその素朴な疑問を口に出す余裕がなく、ただ泣きそうな顔で、いや実際泣いていたのかもしれない、助けて、と叫んだだけだ。アリスはまるでこっちにおいで、と言うみたいに、両手を広げて僕の方を向いた。だけど僕の下半身は穴の入り口につっかえて先に進めないのだし、アリスの膣はどうしたって僕には小さすぎると思った。
そうこうしているうちに、ビッグ・マザーはもう僕に追いついていた。ビッグ・マザーの大きな手が僕の尻を掴んで左右に押し広げ、芋虫みたいに太い指を僕の肛門に突き立てる。不快感と痛みと、それから屈辱で、僕は滅茶苦茶に悲鳴を上げた。だけどアリスはそんな僕の目の前にいながら、お茶会のときみたいに涼しい顔をしているのだった。絶望で目の前が真っ暗になる感覚の中で、ビッグ・マザーの指に体の奥底をかき回されて、僕は射精した。
助けて、助けて。繰り返し僕は叫び、手を伸ばしてどうにかアリスに触れようとする。アリスの身体はもうすぐ目の前にあるのに、僕の手は今一歩のところで、どうしてもアリスに触れることはかなわないのだった。
アリスの唇が、さくらんぼみたいに可愛らしい唇が開いて、何かを言った。だけど僕にはその音声を聞き取ることができない。助けて、助けて。泣き叫びながら僕は、アリスの方に必死で手を伸ばす。アリスはもう一度、今度は僕が聞き逃すことのないようにゆっくりと、口を開く。僕もその言葉を、確かに拾うことができた。
「スイヒラリナカニラミ」
アリスは、確かにそう言ったのだ。僕は首を振る。違う、違う。それは僕の名前じゃない。アリスに呼ばれることを欲望される、僕の名前ではないのだ。だけどアリスは僕の望むような次の言葉を、決して継いでくれることはない。スイヒラリナカニラミ。それはまさしく呪文であり、僕を呪縛する。
スイヒラリナカニラミ。スイヒラリナカニラミ。ああ、もう、別の単語が頭に浮かばない。だから僕は念仏のようにそれを唱えるしかないのだ。スイヒラリナカニラミ、スイヒラリナカニラミ、スイヒラリナカニラミ!そして僕はその右手に、ファルシオンを握っていることを忘れていたのだ。ふと思い出したときには、僕のファルシオンはもう、摩天楼に紛れ込んでいたって一目でそれと分かるくらい、巨大になっていた。
「スイヒラリナカニラミ」
アリスが繰り返し囁く。僕のファルシオンをもう少し伸ばせば、アリスの性器にだって触れられそうだ。しかしそんなことをしたら、アリスの小さすぎるヴァギナを、傷つけてしまうことにはならないだろうか?だけどアリスは僕を迎え入れるかのように両手を広げているのだし、ビッグ・マザーの巨大な手は僕のペニスを掴んで今まさに千切り取ろうとしているのだから、迷っている猶予はなかった。
スイヒラリナカニラミ、スイヒラリナカニラミ!唱えながら僕は、ファルシオンを穴の奥の方へ、奥の方へと伸ばしていく。その時ようやくアリスが、その小さくて細い手を伸ばして、僕のファルシオンの先に、触れた。その瞬間真っ白な閃光が溢れ出し、大地が痙攣したように震え、それから――
「ほら、あなたは戦えるわ」
アリスは僕の隣に立っていた。僕はすっかり裸で、アリスもまたそうなのだった。そのへんにまだ僕の携帯電話が落っこちているかもしれない。僕が地面に這いつくばって財布や携帯電話を探そうとするのを、アリスが咎めた。そんなものは、もういらないでしょう?空みたいに真っ青なアリスの瞳が、そう告げているような気がして、それで僕はそれ以上何かを探すのをやめた。
僕らが唯一手にした武器が、ファルシオンだ。この世界はとても堅固なブラウン管で、ビッグ・マザーは絶対的な戒律なのだけれど、それでも僕ら二人はこうして裸で立ち、二人で一本のファルシオンを握っている。
ファルシオンを握った僕の手を包み込むように、アリスの手が添えられていた。僕はアリスの手がとても美しいことに気づいた。真っ白で、すらりと細長い指。その指が僕の手と僕のファルシオンを包んでいる。
「スペードのエース、スペードのエース」革命ウサギが僕らの足元をちょろちょろと走り回る。「だって革命、革命しかないのヨ。イヴの齧ったリンゴがアンタの背中に刺さってるのだワ。戒律だって、それってナンて規則正しいテクスト!きははははハハ、何もかもが正しい順序で進んでイクの、それが嫌ならもう、革命!革命!」
革命ウサギの戯言に耳を傾ける必要はない。だって僕にはアリスがいる。アリスの小さな手が、美しい指が、僕を包んでいる。もう離さない。もう離れない。
「行きましょう」
僕の手を引いてアリスが言う。どこへ?そんな野暮な質問をする必要はない。先頭を切って革命ウサギが、きはははは、という笑い声だけを残して、走り去っていった。僕らはこの完璧な世界の外殻を打ち破り、向こう側へ到達することができるだろうか?その答えは僕らの手の中に、しっかりと握られている。