スイヒラリナカニラミの伝説
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〈一九九五年三月二二日〉
「トレブリンカのことを考えたの」
そう切り出されただけで僕はもう、彼女が何について話そうとしているのか、分かったような気がした。だけど同時に、彼女がそれについて語るのに、ひどく苦しんでいることも伝わってきたのだ。
「貨車の中やトラックの荷台に、人がまるで荷物みたいに詰め込まれて、輸送されて。ねえ、信じられる?あたしたちの置かれた世界は、五十年前よりもっと悪くなっているのかもしれない。密閉されて密集して移動する空間というもの、それ自体が人間の尊厳に何か致命的な影響をもたらすのかもしれない。そんなことも考えてしまう」
だけど僕らは、密閉された移動手段から、おそらく逃れることはできないのだ。少なくとも、この世界に生きている限りは。そんなことを思いついたけれども、それよりも彼女の声を聞いていたかったから、僕は押し花みたいに黙り込んでいた。
「まるで屠殺場に運ばれる家畜みたいだもの。あれだけの、夥しい数の人間が、屠殺場に運ばれる家畜みたいに殺されていったなんて、想像できる?あたしには結局、想像もつかなかった。だから、どうして想像すらできないのかって考えたの。
「突然思い出したの。高校の、生物の授業だったと思う。カエルの受精卵が細胞分裂を繰り返してオタマジャクシになっていく、その途中の色々な段階にある胚を、寒天で固定して、剃刀で真っ二つに切って、顕微鏡で観察するの。ねえ、信じられる?固定って言うのよ。生物の細胞は日々変わっていってしまうから、そのある瞬間を観察するために、殺すことを固定って言うの。固定と死は同義なのよ。生物の授業の内容そのものより、あたしは、その言葉の概念にびっくりしたの。
「だけど死が固定であるなら、固定もまた死であるか?そうかもしれない、と思う。細胞が生まれ変わり入れ替わる、その運動が停止したとき、それは死と呼ぶより他にない、そう思うの。そして――もしそうだとすれば、あのとき殺されたのは、本当に、何だったのかしら?
「だってあの列車の中では、誰もがパパだったり娘だったり、ママだったり息子だったり、眠たかったり冴えていたり、嬉しかったり悲しかったり、したはずなのよ。それが寒天に閉じ込められたカエルの発生段階の胚みたいに、みんな、固定されてしまった。運動を停止させられてしまった。だからそこで、屠殺場に向かう食肉牛みたいに殺されていったのは、無数の物語であると気づいたの。
「ねえ、だってそうじゃない?あの列車の中には、パパだったりママだったり、貞淑だったり奔放だったり、夢があったり諦めがあったり、そんな区別なんてありはしないんだって、証明されてしまったのよ。あたしたちの生きるこの世界では、もう誰も物語ることができない。だってそれぞれの物語はすべて、何の区別もなく屠殺場の牛みたいに、無差別に殺されていくんだもの。そんなのって――そんなのって、信じられる?」
彼女の言葉はすっかり混乱していて、どこに焦点を定めようとしているのか、まったく分からなかった。実際彼女の頭の中もそんな状態なのだろう。上辺だけの言葉で取り繕うことをせず、混乱した状態の中で混乱した言葉を紡ぐ彼女を、僕はとても誠実だと思った。
「分からない。だから、怖い」
そう言って彼女は顔を覆った。
桜並木の間を僕らは、手を取り合って歩いていた。左右に立ち並ぶ桜は、少女のクリトリスみたいに固く小さな蕾を、来るべき開花のときに備えてぷっくりと膨らませていた。それが確かな生命の営みであるにも関わらず、見事な樹形を保つよう整えられた桜の木は、まるで工業製品みたいに、個々の区別なんか無いように見えた。
「あたしのこと、好き?」
彼女が尋ねる。
「好きだよ」
僕は即答する。
「どうして?」
彼女がさらに尋ねる。僕は今度は即座に答えを返すことができず、そのまま黙って、しばらく桜の中を歩いた。そして軽く首を振って、僕はなるべく誠実に、正直に答えた。
「――分からない」
その答えをあらかじめ予期していたように、彼女は微笑む。
「あなたの声が好きなの」彼女は突然そう告げた。「あと、あなたの髪の毛とか、あなたの体臭とか、あなたの鼻の頭を掻く癖とか、みんな好き。だけど、あなたのことを好きかどうかは、分からない」
それだけ言って彼女は、僕の頬に優しくキスをした。だけどそのキスがいったい何を意図していたのか、僕には分からなかった。
「ねえ、あたしを抱きたいって思う?」
彼女はまた唐突に尋ねる。僕は即答しようとして、ふと返答に詰まる。実際のところ僕はいつだって彼女に触れたいと願っていて、手を握ったり肩を抱いたりキスをしたりしているのだけれど、僕の中のどこかで何かがブレーキを踏んでいて、決定的な接触を拒否する自分がいるのだった。
「分からないな」
僕は正直に答えた。
軽く風が吹いて、桜の枝がざわざわとさざめいた。まるで僕らには聞くことのできないひそひそ話をしているみたいだった。すっかり取り残された僕と彼女は、互いの顔を見合わせる。彼女の瞳の中に僕の瞳が映し込まれていて、合わせ鏡を見ているようだ。瞳のずっと奥の方に、僕の理解できない不思議な種類の光をたたえながら、彼女がこう尋ねる。
「あたしの眼球を愛せる?」
僕は答えられない。こたえられない。