スイヒラリナカニラミの伝説
(15/32)
〈一九九七年六月三日〉
胸元にじっとりと嫌な汗をかいて目が覚めた。そろそろ、密着して眠るには向かない季節になってきたようだ。僕の胸板に乗っかっている女の子の頭を、起こさないようにそっと押しのけ、僕はベッドから抜け出した。窓にぽつ、ぽつと雨が当たり始めていた。道理で、蒸し暑いわけだ。
だけど冷房や除湿を入れるにはまだ少し早かったし、裸で眠っているガールフレンドに風邪をひかせても申し訳ないから、僕はシャワーを浴びることにした。バスタオルと着替えを用意して、ボディーソープを切らしていたことを思い出したから新しいボトルを開封して、そんなことをしながら僕はふと、すいかのことを考えた。僕ら人間はこんな雨の日にシャワーを浴びるけれど、彼は今頃、どこで何をしているのだろうか?
彼はかつて人間の家で暮らしていたのだ。僕はそう考えた。泥跳ねの中を歩いて汚れてしまったときも、温かいシャワーとノミ取りシャンプーに迎えられ、ドライヤーで隅々まできれいに乾かしてもらってから、高級な猫缶に舌鼓を打つのだ。そんな誇り高き彼が、今やゴミステーションの傍らで飢えた腹を抱え、六月の生温い雨に打たれ、泥まみれになって震えている。その姿が僕には、見える気がした。
――ぴるるるる、ぴるるるる。
僕の思考を寸断するように、携帯電話がベルを鳴らす。裸のまままどろんでいる眠り姫を目覚めさせないよう、僕は慌てて携帯電話に飛びつく。果たしてそれは、里佳からの電話だった。
「おはよう」
「……確かに、早い時間だね」
時刻は午前四時を示している。相変わらず里佳の生活リズムときたら不規則極まりないのだし、それに他人を引き込む姿勢もどうかと思うのだが、生活の不規則さについては僕も人のことは言えなかった。
「今、何してたの?」
「寝てたよ。里佳は?」
「セックスしてた」悪びれもせず、里佳はそう言った。「彼が寝ちゃったから、つまんなくなってあなたに電話したの。ねー、一晩で四回もやっちゃったのよ、四回。さすがにもうお腹いっぱいって感じ」
僕はなるべく黙って聞き流すことにした。里佳が僕より冷たくて料理もセックスも下手な彼氏とセックスすることについては何の感傷も抱かないし、僕が里佳の知らないところで里佳以外のガールフレンドと抱き合って眠っていることも、大した問題ではない。
小鳥が止まり木に恋することはない。そして、その逆もまた。
「あたしさぁ、今すっごいお腹すいちゃったの。やっぱりセックスってすごくエネルギー使ってるんだなーって思った。あれだよね、なんか、雑誌とかでよく、セックスできれいになる、みたいな特集あるけど、ほんといいダイエットになると思う」
「そうだね」
「ああ、そうか。あなたがそんなにスマートなのは、きっと普段セックスばっかりしてるせいね。じゃあうちの彼氏も里佳がもっとセックスしてあげれば、あの下っ腹少しは引っ込むのかなぁ」
「そうかもしれないね」
僕がほとんど言葉を発していないにもかかわらず、ベッドの中の女の子は目を覚ましてしまった。裸でリビングに立ち尽くして電話をしている僕の姿を発見すると、自分も下着一枚身に着けることなく、餌をねだる猫みたいに擦り寄ってくる。
「ねえ、すいかは元気?」
里佳が突然話題を猫のことに切り替えたのと、ガールフレンドが跪いて僕のペニスをついばんだのとが、ほとんど同時だった。
「――元気だよ」
無責任に僕はそう答えた。だって僕はあの一度きりで、その後すいかに会ったためしは無いのだから。だけど実際にあの猫が元気でいるのかどうかは、僕らにとってそれほど大変な問題ではないと思ったし、実際里佳も、そんなに彼の安否を気にしている風ではないように思えた。
「里佳子供の頃からずっとマンションだったから、猫って飼ったことないんだ。一度飼ってみたいって思ってたの。ねえ、すいかは何が好きかな。今度あなたの部屋に行くときに、煮干しとか買って行こうかなぁ」
「そうだね。きっと喜ぶと思うよ」
話しながらふと下を向くと、僕のペニスをアイスキャンディーのように舐め回す女の子の頭がある。くしゃくしゃ、とその髪の毛をかき回してやる。彼女は上目遣いに僕を見上げ、誇らしげにVサインをしてみせた。僕は愛想笑いを返した。上手に笑えているかどうか、自分でも不安だった。
「やだ、なんか喋ってたらほんとにお腹すいてきちゃった。すいか、すいかなんて言ってるから、そろそろ西瓜の季節じゃない、なんて。だけどすいかは猫だから西瓜は食べないわね」
「そうだね」
「うん、決めた。今度行くときにすいかには煮干しを、あなたには西瓜を買っていこう。ねえ、あなたは西瓜苦手じゃないわよね?それとも、もっと他の果物の方がいい?」
「いや、大丈夫だよ。楽しみにしてる」
まったく無感動に返答しながら僕は、まったく無感動に射精した。
ガールフレンドはその後僕と一回セックスをしてから、午前六時に帰っていった。彼女には半年前から別居状態の夫と、この春から小学校に上がった息子がいるはずだ。
月に一度真夜中に出かけて行き、五歳も若い男に抱かれ、明け方に帰ってくる母親を、息子はどんな気分で迎えるのだろうか。子供が寝てから出てきて、子供が寝てるうちに帰るのだから、問題ない。そう彼女は言う。だけど彼はきっと夜中に目を覚まし、母親の不在に気づきながら、目を閉じ眠ったふりをして朝が来るのを待っているだろう。僕はそう確信していた。
彼はもうマスターベーションを覚えただろう。僕はそうも思う。母親の縮れた陰毛や、大きくはみ出た陰唇に嫌悪感を催しながら、同級生の女の子の無毛の性器を想像して、マスターベーションをしているのだろう。その機構や役割もよく知らないままに、包皮に覆われた小さなペニスを、指先で弄んでいるのだろう――かつて、僕がそうだったように。
そんなことは大した問題ではない。
止まり木はそこにありさえすればいいのだ。傷つき羽を休めようとする小鳥の、その行く先まで心配してやるのは、余計な世話というものだ。止まり木が小鳥に同情することはない。そして、その逆もまた。