スイヒラリナカニラミの伝説
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〈一九九七年六月六日〉


 ――雨粒が傷口に染みる。ゴミ捨て場の折り重なったダンボールの間で、一体化するように眠っていた彼は、騒々しい雨音で目を覚ましてしまった。安穏と眠るべき家などとうに捨てたし、そのことを別段惜しんでもいなかったが、こんな天気のときには、傷が疼いて仕方がない。
 こんな日はどうしても、あの晩のことを思い出してしまう。
 彼は立ち上がった。髭の先から水滴が落ちて、ぴしゃん、と足元を叩いた。すっかり飢えた胃袋を抱えて、まだ陽の射さない街に消えていく。今日はまともな飯にありつけるだろうか、それとも少しはましな女にありつけるだろうか?どちらも無駄な期待であることを、彼は知っている。――そう、あの晩のようなことは、そうそう起こりはしない。


 その頃彼はまだ若く――あるいは幼く、この世界における不慣れな新参者でしかなかった。規則正しく三度の食事を摂り、柔らかな毛布に包まれて眠る生活が骨の髄まで染み付いていたから、突然この寒々とした路地に放り出されたところで、食べ物を自分で見つけることも、眠る場所を確保することもできないのだった。
 空腹で目が回りそうだった。夜になってもネオンの消えない街は賑やかで、行き交う人々は皆幸せそうに談笑している、ように見える。この世で自分だけが置き去りにされたような気がした。誰かが食べかけのハンバーガーを、ぽい、と道端に放り捨てた。憎らしいような、恥ずかしいような複雑な気持ちで、彼は道端に転がっているハンバーガーを睨んでいた。
 一人の男が彼の目の前を通り過ぎようとして、ふと立ち止まり、ハンバーガーを拾い上げた。彼は何も言わない。男は彼の方を一瞥し、憐れむような、どこか馬鹿にしきったような微笑を浮かべて、やはり何も言わず立ち去る。
 ひとまず寝床を探そう、と歩き出した彼の足元には力が入っていない。いつの間にか同業者たちが、地下鉄の入り口や公園の遊具の陰に、それぞれ風の来ない場所を選んで、寝そべっている。彼に残された場所はもう、冷たいコンクリートの上しかなく、そして彼はその冷たさと固さを和らげる、ダンボールの一枚さえも確保できていないのだった。
 それでも駅の階段の片隅に、どうにか今夜の宿を決め、彼は身体を丸めて眠りに落ちようとした。意識にぼうっと靄がかかってきたちょうどその時、不意の暴力によって彼のささやかな平和は奪われた。全身を襲う痛みに彼は目を覚まし、最後に後頭部をがつんと叩いた痛みに再度意識が遠のく。階段で寝ていた彼の身体を蹴飛ばし、一番下まで蹴り落とした何者かの足を発見するには、少々時間が必要だった。
「よう、坊主」まるで何の悪意もない、という顔で、彼を蹴落とした男は笑った。「ここは、俺の場所だ。覚えときな。この街のありとあらゆる場所が、誰かの場所だ。おまえさんの場所はどこにもない。欲しけりゃ誰かを殺してでも奪い取るんだな」
 反撃する膂力は彼にはなかった。目の前の男を殺して寝場所を奪おうと試みたところで、殺されるのは彼の方であることは、誰の目にも自明だった。彼自身の目にも。


 終電もとっくに終わった、真夜中の街だ。だけど人の姿は絶えることはなく、通りを照らすネオンサインもその数を減らしてはいるものの、消え去ってしまうことはない。
 明るく賑やかな場所を避けるように徘徊するうち彼は、薄暗い路地裏に辿り着く。そこには嘔吐物と生ゴミと小便の混ざった、絶望的な臭いが充満していた。ここなら眠れそうだ、と彼は思う。こんなひどい場所に好きこのんで寝床を求める者など、誰もいないだろう。
 ――いや。
 近づいてそこに、彼は先客を発見する。そこも彼ではない誰かの場所だった。彼が見たのは、料理店のごみが入ったポリバケツの中に、顔を突っ込んでいる女の姿だった。女は彼の気配に気づいてふと顔を上げた。
「一緒に食べる?」
 女はそう言って微笑む。彼は首を振った。かつては美しかったかもしれない女の顔は、泥やら別のものやらでひどく汚れていたし、少しでも近づけばそこのゴミバケツ以上に不快な臭いがした。
 女の口の端には、ついさっき食べていた肉のかけらがへばりついていて、そのことに気づいた彼女は手の甲で口元を拭った。そうしたら、口の周りに点在していた汚れが、べっとりと口元全体を覆うように広がった。
「本当に、食べないの?」
 いっそう顔を彼の方に近づけながら、女が尋ねた。彼は極力息を吸い込まないように、口をしっかりつぐんだまま、ただ首を振った。
「そう。こんなに美味しいのに」
 彼女の言いたいことは分かった。この世界でこれから生きていくためには、こうした食事を受け入れなければならないのだ。そう頭では理解しても彼は、女のするように半ば腐敗した食物を口に放り込むことはどうしてもできず、それどころか襲い来る吐き気に抵抗しひたすら目と口を閉じることに精一杯なのだった。
 ともかく眠ろうと、目を閉じた。視覚を封印した世界では、触覚や嗅覚や聴覚が恐ろしく鋭敏になった。女が生ゴミを咀嚼する、ぴちゃぴちゃという湿った音が耳にまとわりつく。冷たいアスファルトの感触が骨まで染み込んでくる。到底、眠れそうにない。


 ぴしゃん、と鼻先を叩かれて、彼は目が覚める。彼を襲ったのは、真夜中に突如降り始めた雨だった。寝心地の悪いこのゴミ捨て場で、ようやくうとうとし始めていたのに。瞼を手の甲でこすって、どうにか視界を取り戻す。そして――目を疑う。
 彼の目の前にはポリバケツが倒れて転がっていて、それから、先程の女がいる。それだけではない。ぶちまけられた生ゴミの海の中で、這いつくばるようにして嬌声を上げる女の後方から、出入りする硬直したペニスがある。雨と生ゴミにまみれながらセックスをする男と女。その周囲を何人もの別の男が囲んでいて、皆、下卑た薄笑いを浮かべている。
 何が起こっているのか分からない。気を取り直すように、ぶるん、と頭を振って、彼は起き上がった。否、起き上がろうとしたが、その時男の一人が彼の頭を踏みつけたのだ。コンクリートと過激な抱擁をした彼の脳天は、一瞬意識が飛んでいったようになる。
「もう少し眠ってな。坊やには刺激が強すぎるぜ」
 男たちが一斉に、ひひひひひ、と馬鹿にした笑いを漏らした。
 セックスをしていた男が不意に、勢いよく、ペニスを引き抜く。女のヴァギナからは精液が一滴流れ出してきて、内股を滑っていった。その様子を彼は地面に横倒しになって、顔面を踏みつけられたままで、ずっと見ていた。
 今度は別の男が、女の後方からのしかかるようにして、ペニスを差し入れる。女は気がふれたような、冒険物語に出てくる怪鳥のような、濁った叫びを上げた。粘液にまみれて性器がこすれ合う、ぐちゃぐちゃという音が、彼の耳にも確かに聞こえた、ような気がした。
「おい、見ろよ。このガキ、勃起してるぜ」
 彼の顔を踏みつけていた男がそう言い、そして男たちは一斉に笑った。
 彼はひどく腹が立った。怒りなのか屈辱なのか悲しみなのか、それはよく分からない。何に対してこんなに腹が立つのか、目の前の男たちになのか、それともどうしようもなく怒張した自分のペニスになのか、それもよく分からない。ともかく彼は全身の力で、彼の頬に押しつけられていた足の裏を跳ねのけ、起き上がり、それから目の前の男に殴りかかった。
 突然、顔面がぱあっと熱を帯びた。
 彼は悲鳴を上げ、顔を押さえてうずくまる。やはり何が起きたのか、瞬時には理解できない。男がその手の鋭利な刃物で、彼の右目の辺りに切りつけたのだ。激痛が顔の表面を支配する。瞼が貼りついたようになって開かない。
 男たちの笑い声が、がんがんと彼の頭を殴りつけるように響いた。無数の足先が次々に彼の身体を蹴飛ばしていく。腹に、背骨に、勃起したペニスに、勢いよく爪先が食い込んできて、彼の意識は遠ざかっていった。


 どれくらい時間が経ったのだろう?
 視界が戻らない。どこまでも深い闇の中、いよいよ本降りになった雨の打ちつける感触の他に、何も感じない。その雨に洗い出されるように、少しずつ、全身の痛みが襲ってくる。身体じゅうがひどく痛む。その中でも特に、右目には雨水が直に染み込んでくるような痛みがある。
 鼻先に、生温かい息がかかる。腐ったキャベツの臭いがする空気だ。それから、ざらついた、温かく湿った舌が、彼の傷口を舐め上げた。何度も、繰り返し何度も右目の傷を舐められる。その都度刺すような痛みが、彼の感覚を少しずつ鋭敏にしていく。
「起きなよ」女の声がした。「やらせてあげる」
 雨とゴミの臭いに混ざって、微かに精液の臭いがした。彼は左目だけを、こじ開けるように開いた。ぼんやりと歪んだ視界が、少しずつその輪郭を取り戻していく。目の前に、女のヴァギナがある。醜くはみ出した陰唇。その間から流れ落ちる、何人分もの精液。
 彼は女の身体に乗り上げるように、その背後から自分の肉体を押しつけた。すっかり屹立したペニスはまるで自然に、ぬるりと肉の割れ目に滑り込んでいく。もう何も考えることはせず、彼はゼンマイ仕掛けの玩具みたいに、機械的に腰を動かし続ける。彼のものではない誰かの精液が、彼のペニスに絡みついて、ぐちゃぐちゃと腐敗した果実を踏み荒らすような音を鳴らす。
 あっという間に彼は射精した。射精すると、彼は呆然としていた。女は彼から身体を引き剥がし、何事もなかったような顔で、ひょこひょこと歩いていく。その後姿をただ見送りながら、彼は動くことさえできずにいた。
 雨足はますます強まる。倒れたゴミバケツの傍らで、彼はじっと立ち尽くしている。東の空が白み始めていた。


「――それで、おしまい?」
 ぱち、ぱちとまばたきしながら、里佳がそう尋ねてきた。これでおしまい、と言い聞かせるように答えて、僕は小さく伸びをした。
 僕らは猫のすいかの、右目の上にある大きな傷について話していたのだった。彼が辿ってきた数奇な人生、いや猫生について空想を巡らし、寝物語に語っていたのだ。
 だけど僕らは雨露の心配のいらない屋内で、清潔なシーツにくるまって、誰にも邪魔されずにセックスをし、誰にも邪魔されずに眠る。今頃すいかは、どこで何をしているのだろう?街の片隅でゴミにまみれながら、腐臭のする女の子とセックスをしているのだろうか?
「猫の目で見たら、もしかしてすいかは、すごくセクシーな男なのかもしれないわね」
 だけどあたしはあなたの方がいいわ、と言って、里佳は僕のペニスに沿って指を滑らせた。それは、もう一回しよう、という里佳の合図なのだった。暗闇の中で僕は、指で里佳の耳を探り当て、そこにキスをする。まだ夜明けには遠い。僕らは手探りでお互いの輪郭を確かめ合い、唇や手足や性器や、身体の色々な箇所を重ね合わせ始めた。