スイヒラリナカニラミの伝説
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〈二〇〇一年XX月XX日〉
一歩踏み出すと、足元で小石が、ざりっ、と鳴った。まったく僕らが立っているのは草一本生えない荒野で、ビルディングの影ひとつ見えやしない。ぶらりと下がった僕の右手と、その手の中にある小さなファルシオンが、平坦な土の上にやたらに長い影を作っていた。
「愚かな」
ビッグ・マザーの声が響くと、天井のブラウン管がびりびり、と共鳴した。
「自分のしていることが、分かっているのか?お前に力を与えているのは、この私なのだ。私を否定することは、この世界でのお前自身の生を否定することなのだ。分かるだろう。引き返すなら、今しかない」
もう惑わされない。自らにそう言い聞かせて、僕は足を進めようとする。だけど全身の筋肉も、あるいは海綿体さえ萎縮してしまったようで、脳の指令とは裏腹に僕の身体は凍りついたように動かないのだった。
ふわり、と柔らかい感触が、僕の左手を包んだ。左手だけではなくて、全身を包まれているような気すらした。お日さまとミルクの匂いがする。アリスは僕の手の甲に軽くキスをして、それから、にっこりと微笑んだ。
「大丈夫」
他に何の根拠もなくとも、アリスにそう言われただけで、僕の身体の足指の先まで力がみなぎってくるのだった。そう、大丈夫だ。僕はオイルの切れたロボットみたいに、ぎこちなくではあったが、次の一歩を踏み出す。
アリスのために、それから何より僕自身のために、僕はビッグ・マザーを倒さなければならない。僕の手には唯一の、そして最大の武器である、ファルシオンが握られているのだ。そしてアリスが僕に力を与えてくれる。大丈夫だ。僕は、進むことができる。
目の前に、というより足元に、大きな穴が開いている。ここに飛び込むの?と僕は不安な気持ちで、アリスの方を振り返った。大丈夫よ、とアリスが頷く。
僕は地面に膝をつき、穴の中を覗き込んだ。底が見えない深い穴は、深淵とでも呼ぶべきものだ。僕は試しに、おおい、と声を上げてみた。穴の底に声が達する気配はない。それから、王さまの耳はロバの耳、と叫んでみた。その声はすっかり穴に飲み込まれた。ここにはどんな言葉だって吸収されてしまいそうな、そんな気がした。
アリスが僕の隣にしゃがみ込んだ。そのせいで、スカートの内側が危うく見えそうになって、僕はそちらばかり気にしてしまう。アリスは穴の上に大きく上体を乗り出し、それから決して大きくはない、しかし確かに揺らぎのない声で、こう言った。
「革命!」
しばらく、辺りは水を打ったように静かだった。だけどある瞬間を境に、地面のずっと奥の方から微かに震え出し、そのうち揺れはどんどん大きくなって、ついには高速道路だってなぎ倒しそうな大地震になったのだった。アリスの声が大地の一番底に到達し、この世界の屋台骨を叩き割ったのだ。そう確信した。
――飛び込むなら、今だ。
僕は目をつぶって、ついでに鼻も口もぎゅっと塞いで、お尻から穴の中に身を投じた。全身が重力の制御を失う。僕の鈍重な肉体が、漆黒の闇の中を駆け抜けていく。深く。深く。
どこまでも落下し続ける僕の肉体は、なかなか底へと到達する気配を見せない。いったい何が起こっているのか、ふと興味にひかれて、僕はうっすらと目を開けてみた。
そこでは僕だけでなく、様々な物が落ちていっているのだった。それぞれに落下速度が異なるようで、僕の目には突如浮き上がるように見えるものさえある。時計、トランプ、ガラスの小瓶。トウィードルダムとトウィードルディー。だけどそれっていったい何だったっけ?
「きははははハハはははは」
ひときわ癇に障る笑い声が、耳元で響いた。僕より後から落ちてきたはずの革命ウサギは、もう僕に追いついている。ビー玉みたいな瞳をくりくりと忙しく回転させて、革命ウサギは例の甲高い声で、こう叫んだ。
「王様の家来をみんな集めても、王様の馬をみんな集めても、もう止まらないのだワ。だってそれって反乱じゃなくて革命、天体の運動とおンなじくらいに必然!タールの樽くらいに大きなカラスが、ひどく悪い知らせを運んできたのだワ。だからモウどこまでもドードーみたいに死に絶えるしかないのヨ。きははははは」
今度こそこの小生意気なウサギを捕まえてやろうと、僕は腕をぶんぶん振り回した。だけど革命ウサギは、方向転換用の噴出口でも搭載しているみたいに、ひょいひょいと宙を飛んで逃げ回るのだ。
そうだ、思い出した。僕はファルシオンを持っている。猫だって少女のヴァギナだって切り裂くことができる、鋭い刃を手にしているのだ。僕は革命ウサギを二度と口が利けないようにするため、ファルシオンをぶん、と振り下ろした。だけどこんな時に限って、ファルシオンは借りてきた猫みたいに縮こまっていて、ウサギにはかすりもしないのだった。
「旦那様に一袋、奥方様にも一袋。だケドも小道の奥のちっちゃなボウヤの分はありゃしないのだワ。ちっちゃなちっちゃなちっちゃなボウヤ!きはははははは、スペードのエース、イザって時にはほんとに役立たずなのだワ」
それから革命ウサギは急速に落下していき、例の笑い声もずうっと低い音になって、穴の奥に吸い込まれていったのだった。
だけどいったいこの穴に終わりはあるのだろうか?僕は少しずつ恐怖に侵食されてきている。ひょっとしたら僕は、決して逃げることのできない、それこそビッグ・マザーの胎内に向けて身を投じてしまったのではないだろうか?僕は上を見上げる。だけどアリスが降りてくる気配は一向にない。
終点は突如として訪れた。僕は最初の穴に落ちたときと同じように、気を緩めた瞬間にどしんと尻餅をついたのだ。だけどここにはリンゴの木も、いずれ赤いペンキで塗り替えられるはずの白いバラもなく、ただひたすら深い闇だけが広がっているのだった。
それにしても、アリスはどうしたんだろう?もうそろそろ、ふわふわのスカートをパラシュートみたいに翻して、天使さまみたいに僕の眼前に降り立ってくれてもいいはずなのに。だけどそこにはアリスはもちろん、生きとし生ける何者の気配も感じられることはなく、ただビッグ・マザーの圧倒的な存在感だけが支配しているのだった。
おおい、と僕は声を上げようとした。だけど僕の声帯は音声を紡ぐことができない。胃を襲った突然の嘔吐感のせいで、僕は口元を押さえてその場にうずくまり、身動きとれなくなってしまったのだ。食いしばった歯の間から、すうすうと空気の漏れる音がした。
何か、どうしようもなく叫び出したい。だけど、迂闊に口を開いたら僕は、その途端に内臓が全部裏返って口から飛び出し、取り返しのつかないことになってしまうような、そんな恐怖を感じていたのだ。声を発することができない。何か。何か、言わなければ。
「スイヒラリナカニラミ」
違う。僕は必死で首を振る。それじゃない。そんな、どこに力点を置いたらいいのか分からない、掴みどころのない言葉じゃない。だけど僕の口からそれこそ嘔吐物のように溢れ出した音声は、もう僕自身の意思では止めることのできないものになっていた。
「スイヒラリナカニラミスイヒラリナカニラミスイヒラリナカニラミ」
違う、違うんだ。僕は心の中でアリスに助けを求めるけれど、その気持ちは決して声になることはなく、僕の口をついて出るのはその無意味なフレーズだけだ。スイヒラリナカニラミ。すいひらりなかにらみ。
「ラリナカニラミスイヒラリナカニラミスイヒラリナカニラミスイヒラリナカニラミスイヒラリナカニラミスイヒラリナカニラミスイヒラリナカニラミスイヒラリナカニラミスイヒラリナカニ」
止まれ。止まれ!
だけど僕の舌も唇もすっかりスイヒラリナカニラミに支配され、僕はもうすっかり言葉を失っている。なんと不自由なのだろう。吐き出したい気持ちは山のようにあるのに、僕はそれらに与えるべき言葉を持たず、そして僕の口からはまるで意味のないスイヒラリナカニラミだけが垂れ流される。
アリスは、アリスはどうしたんだろう。こんな時にはいつもアリスが助けに来てくれるはずなのに。そんな願いも空しく、僕はうずくまって駅前の酔っ払いみたいにげえげえとスイヒラリナカニラミを吐き出し続けるのだし、ビッグ・マザーは勝ち誇ったようにこう言うのだ。
「分かっただろう、お前はまだ未熟な胎児。この羊水から離れては生きられないのだ。その苦しみから逃れたいのなら、私を受容しなさい。お前に必要な意味を、体系を与えているのは、この私なのだ。お前に来している齟齬を、不自由を、私が解消してやろう」
だからその剣を捨てろ、とビッグ・マザーは言うのだろうか。そして僕の剣は彼女の鞘に飲み込まれ、食い尽くされてなくなってしまうのだ。そうすれば僕は虫歯になるくらい甘い乳を吸わせてもらうことができる。チチ。だけどここにはハハばっかりだ。笑っちゃう。ははは。
「革命!」
アリスの凛とした声が、突如として響いた。その瞬間僕を覆っていた闇はがらがらと崩壊し、もうすっかり瓦礫の山と化して僕の足元に折り重なっていた。あんなにも堅固だと思った構造物が、壊れ落ちるときはほんの一瞬だ。アリスだ。アリスが、助けに来てくれた。
「革命」
アリスはそう言いながら、にっこりと微笑み、僕の方に手を差し伸べる。僕はその手を取って立ち上がる。そうだ、それがビッグ・マザーの強固な支配を打ち砕く、マジック・ワードだったのだ。アリスがもう一度口を開く。今度は僕もそれに合わせて、同じ言葉を口にしようとする。だけど。
「スイヒラリナカニラミ」
僕の口からはげっぷみたいに、その音節がぼろっとこぼれ落ちたのだった。
その瞬間再び、世界がびりびりと震え出した。この世界の外殻が、すべてを映すブラウン管が、破裂し、無数の断片となって、僕らの頭上に降り注ぐ。違う、違う、そうじゃない。僕とアリスがビッグ・マザーを打ち倒し、この世界に真の自由をもたらすマジック・ワードは、それではない。
ひときわ大きな破片が、がつん、と僕の後頭部を打った。途端に意識がぼうっとして、僕の肉体も精神も、降り積もる瓦礫の中に飲み込まれていった。