スイヒラリナカニラミの伝説
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〈一九九五年三月二四日〉


 彼女がどうしてこんな場所を待ち合わせに指定したのか、分からなかった。普段なら大学の近くの喫茶店とか、そのへんの駅の改札口とか、そんな場所で待ち合わせているのだけれど。今日に限って僕は、大学とも自分のマンションとも何の関係もないどこかの駅の、そこからさらに少し離れた、全国チェーンのファミリーレストランで、二時間ばかり待ちぼうけを食わされているのだった。
 すぐ近くを鉄道の高架が通っていて、何分かおきに壁の向こうからがたんがたんと音がする。ガラス窓が、微かに揺れる。僕はどこに来ているのだろう、そう訝しく思うくらい、殺風景で個性のない空間だ。窓の外に見えるのは、鉄筋のマンションと、市営の駐輪場と、古びたラブホテル。おそらく日本中のあらゆる線路沿いに、こうした光景が広がっているのに違いない。
 コーヒーのお代わりが自由なのをいいことに、僕はもう六杯目に口をつけているところだ。あいにく煙草も吸えない僕は、こんな時にどうやって時間を潰せばいいのか、分からない。文庫本を一冊持っていたので、とりあえず開きっぱなしにしているのだけれど、視線が活字の上を滑り落ちていくようで、まるで頭に入ってこない。いつも時間に几帳面な彼女が、今日はどうしたというのだろう。
 三時になったら何か頼もう。時計を見て、そう思った。メニューを広げ、クレープかアイスクリームくらいなら食べられるかな、などと考え始める。だけど、どうも食欲を刺激されないのは何故だろう。昼食からはずいぶん間が開いていたから、もう少し空腹であってもいいはずなのに。
 文庫本を閉じて、軽く背伸びをした。ついでに欠伸も出てしまって、ウェイトレスの女の子と目が合ってしまったものだから、少々気まずくなって視線をそむけた、そんな二時五十八分。
 ――自動ドアが開くと、どたどたという騒動の音がなだれ込んできた。いつになく大股でレストランの店内に入り、ずかずかと僕のテーブルに近づいてくる彼女。そこから二歩遅れて、見たことのない男が追いかけてくる。誰だろう、あれは。僕の知っている人だったろうか?
「誰だい、この男は?」
 僕が口にするはずだったその質問を、その男が代わりに口にした。そこらの流行らないスーパーで売ってるような、安物のスーツを着込んだ男。彼女の父親にしては若すぎるし、兄にしては歳を取りすぎているような、そんな男だ。
「質問する権利は、あなたにはないわ」男の方を見もせず、彼女が言う。「もう、時間切れよ」
「まだ、あと一分ある」
 時計を見ながら男が言う。安物のスーツに似合わない、高級そうな時計だ。きっと海外の免税店で買ってきたものに違いない。
「あたしの時計では、もう三時になったわ。あなたの時計、遅れてるんじゃないの?」
 彼女はそう言いながら席に着き、メニューを広げた。メニューの中にすっぽり顔を隠すようにしながら、こう続ける。
「そうね、じゃあ、サービスで教えてあげる。この人が、あたしの一番大切な男の子。これで満足した?」
 その返答に男が満足したようには、到底見えなかった。だけどともかくその男は、それ以上彼女に何を尋ねるでもなく、歩み去っていく。出入口付近で一度立ち止まり、ちっ、と舌打ちした、その音が聞こえたような気がした。
 手にしていたメニューをテーブルの上に下ろし、顔を正面に向けると、彼女はもういつもの彼女だった。相変わらず、何を考えているのか読みとることのできない、不可解な微笑。
「ねえ、おなか空いちゃったでしょう。おごるから、何か食べよう」
 そう言われても僕はもう、クレープにもアイスクリームにも、何ら魅了されるところはなかった。


 レストランを出ると、彼女が僕の二歩先を歩き出した。追いついて、彼女の隣に並んで、いつものように手を繋ごう。そう思っているのだけど僕は、この時はどうしても、亀を追うアキレスみたいに、僅かずつ彼女から遅れてしまうのだった。
「――軽蔑した?」
 突然、彼女が言う。何のことだか分からない。だから僕は、答えられない。
 いろいろなことを聞かなければならないのだ。例えば、どうしてここを待ち合わせ場所にしたのか。どうして二時間も遅れてきたのか。あの男は誰だったのか。そして――どうして僕が彼女を軽蔑する理由があるのか。だけど僕の胸は慌ててものを食べ過ぎたときみたいにつっかえていて、言葉はどす黒い巨大な塊となって、決して吐き出されることはないのだった。
「あたしね、見せたかったんだと思う。あなたに」
 彼女の言葉はどうしようもなく断片的で、そこから全体像を把握することは難しいように思えた。見せたかった?何を?さっきのあの男を?
「自分の価値が知りたかったの」彼女は続ける。「生物学者にもなれなかったあたしだけど、そんなあたしが、例えばハンバーガー何個分になるのか。鋼鉄のチューブの中に寿司飯みたいに詰め込まれたあたしたちの、一人一人がコーヒー何杯分に翻訳されて流通するのか。そのへんの、仕組みを知りたかった」
 彼女が何を話しているのか分からない。僕は突然、彼女が自分と違う宇宙の住人になってしまって、僕には理解できない宇宙の言語を話しているような、そんな錯覚に囚われた。だけど彼女の扱う言語は僕と同じ、この星のこの土の言葉だ。それなのに、言葉のひとつひとつは耳慣れた音節であるのに、頭の中を素通りしている。
「だけど結論から言ってしまうと、やっぱり、よく分からない。紙切れ二枚って思っても、ハンバーガー百個分って考えても、どこか実感がわかない。あたしはこの二万円で洋服を一着だけ買うこともできるし、百日間ハンバーガーを食べ続けることもできる。だけど、たぶんそのどちらもすることがないし、あたしの何がどう翻訳されてこの二万円が出てきたのか、その中間を媒介する仕組み、ファンクションみたいなものは、結局まるで見えやしなかった。だからあたしはこの二万円であなたにコーヒーをごちそうして、それでも、まだほとんど余っている」
 僕は彼女を追うことをやめ、立ち止まった。ひどくむずむずした。背筋を嫌な寒気がすすすっと上っていった。軽い目眩と、少々の吐き気がした。何が原因かは分からない、ただ、彼女の言葉が僕の神経のどこかを、とても嫌な形で刺激している。
 彼女は種明かしを始めた。
「最初はただ会って、一緒にお茶を飲んだの」彼女も僕に合わせて立ち止まった。振り返る。たかだか歩幅二つ分の距離。だけど、僕らの間はもう星二つ分も離れているように感じる。「そうしたら、五千円くれた。その次に会ったときは、腕を組んで一緒に歩いて、別れ際にキスをしたの。そうしたら今度は、一万円だった」
 僕の膝がぶるぶると震えだす。やめろ、やめてくれ。それ以上言わないでくれ。彼女の言葉の内容の、半分も理解していないのに僕は、これ以上彼女の話を聞くことがいかに致命的であるか、既に察知しているような気がした。耳を塞ぐべきだった。だけど、僕の腕も手指の筋肉も硬直してしまって、脳からの指令に従わない。
「今日、セックスしたの。いくらでもいいよ、って言ってあげた。そうしたら二万円くれた。だけど何がどうして二万円なのか、このお金を使い始めた今でも、まだ分からない」
 ――絶望的だ。
 僕の全身が噴火する直前の火山みたいに震える。もう意志の力でどうにかなるものではない。今にも嘔吐しそうだ。どうすればいいのだ。重心の方向が歪み、地球がまったく違う方向に自転を始めたみたいで、僕はもう自分の身体を支えていることすら必死だ。今にも倒れそうだ。もう倒れる。
「ねえ、おかしな話だと思わない?ついこの前まで、あたしは家庭教師のアルバイトをしていたの。中学二年の女の子、先生とそりが合わなくて英語の成績が悪かった女の子に、少しでもペーパーテストの点数が上がるようにって、全身全霊、全知全能を振り絞って、教えてたの。その時給が二千円。もちろん、コンビニのレジ打ちやレストランの皿洗いと比べたら、十分高いと思う。
 それなのに――それなのに、発見してしまったの。だってたかだか二時間足らず、何も考えずにぼうっと寝そべってるだけなのに、二万円なのよ。頭脳と声帯をフル回転した十時間分と、今夜のテレビ番組のことでも考えながら足を広げて寝転がっている二時間が、この世界の基本法則に従えば、まったくの等価だなんて。これは何か根本的な、あたしたちの存在に関わるような、決定的な発見だと思うの」
 彼女が僕に向かって手を、細く白く滑らかな手を、伸ばす。だけど彼女の意図がどのあたりにあるのか、分からない。分からないから僕は、いつものように彼女の手を握り返すことは、できない。彼女は僕のわきの下に手を差し入れるようにして、お互いの手を巻きつける。彼女の頬が僕のすぐ顎の先にある。僕はそれ以上近づくことも、逃げることもできない。
「ねえ、あたしはさっきあなたにコーヒーをおごって、だけど、まだそのへんのうらぶれたホテルに一緒に入って、部屋で宅配ピザを一緒に食べるくらいのお金を持っている。だけどこのことがいったいどんな意味なのかは、ほんとうに分からないの。あなたは、どう思う?」
 そんなことは僕には本当に、まったく分からない。