スイヒラリナカニラミの伝説
(19/32)
〈一九九九年七月二九日〉
そういえばしばらく真秀からの連絡がない。そんなことに気づいたのは、そろそろ携帯電話を買い換えようかと思って、メモリーを確認していたせいだ。もうこれで何台目の携帯になるんだろう。最初の頃に持っていたのがどんな機種だったか、もう覚えていない。まったく、この世界のスピードについて行くのは容易ではないのだ。
同じメーカーの最新機種に乗り換えれば、登録された電話番号などのデータも引き継がれる。その代わり機種の交換にかかる費用は、新規に契約する場合の比ではない。おかしな話だ。僕が欲しいと思っている携帯電話は、今使っている機械から交換するには六千円くらいかかるのだけれど、新しく契約する場合にはたった十円で済んでしまうそうだ。十円。駄菓子屋で買うバラ売りのガムより安いのだ。馬鹿げている。
それでもとにかく最新の携帯電話にすれば、液晶画面は大きく見やすくなり、インターネットに接続して様々なサービスやコンテンツを享受できるし、メールだって一回の送受信で現在の十倍くらいの長文をやりとりできるようになるのだ。そうして皆がまだ使える携帯を捨て、次々に新しい携帯電話を、十円とか一円とかで、買う。馬鹿げている、とぼやいている僕だって、きっとじきに六千円出して新しい携帯を購入するに間違いないのだ。
その前にこの往年の名選手に、もうひと踏ん張りしてもらおうと思った。真秀に、メールを書こうと思う。
だけど実際のところ、何を書けばいいのか分からないのだ。
僕はかつて真秀に送ったメールの履歴を見ていた。ひどいものだ。それは何か個人的な連絡であるというより、仕事に使う文書みたいに見えた。「手で二千円」「脱がずに口だけ五千円」「おまかせ(上限一万円)」「来るときアイス買ってきて」
真秀から僕に送られてきたメールも、大差ないものだった。結局のところそれらはすべて、事務連絡なのだ。だから僕は、事務連絡でないメールをどう書いたらいいのか、分からない。しばらく連絡のない真秀が最近どうしているのか知りたいのだけど、それを的確に伝える言葉が見つからないのだ。携帯の液晶画面と対峙したまま、僕はしばらく、メドューサ退治に失敗した間抜けな勇者みたいに、固まっていた。
どうしようもなく悩み、何か書こうとしては寸前でとどまり、そうこうしているうちに三十分が経過していた。これこそ馬鹿馬鹿しい。どうにでもなれ、と思って、僕はたった四文字、感嘆符まで入れても五文字の短い文を入力し、すぐさま送信した。
生きてる?
それこそ僕が聞きたいことのすべてだ。真秀がどうしているのか、気持ちを入れ替えて真面目に予備校の夏期講習に通っているのか、それともさぼって喫茶店や映画館で涼んでいるのか、先週僕があげたお金でスパゲティを食べているのか、僕ではない他の男のペニスを舐めているのか。そんなことは、どうでもいいのだ。差し当たり、僕が発信した電波の届く先に、真秀がいることさえ確認できれば、それでいい。
果たして返信はあっと言う間に来た。よほど暇だったのだろうか。
しんでない
真秀からのメッセージも僕に負けず劣らず、単純で明瞭なセンテンスだった。しんでない。ともかく真秀の無事を確認できたようでほっとしたが、ふと、壁に突き当たる。しんでない。漢字に変換するのも煩わしかったのだろうか、それとも、何か別の理由があるのだろうか?僕はこのメッセージを「死んでない」と解釈したが、あるいは「芯出ない」かも、「真で無い」かもしれないのだ。そもそもこれはほんとうに真秀が送信したメールなのだろうか。誰かが真秀の携帯電話を勝手に操って、僕を攪乱させようとでたらめなメールを送っているのではないか?
ほとんど妄想みたいな不安に駆り立てられ、僕は真秀に電話をかける。呼び出し音が二度も鳴らぬうち、真秀がすぐに応じた。「もしもし」不安定な電波に乗せられ、少々ノイジーなその音声は、間違いなく真秀のものだ。
「どうしたの?何かあった?」
真秀に尋ねられて僕は、ふと正気に返る。何をしているんだろう、僕は。馬鹿馬鹿しい。真秀の声を聞いて、いったいそれから、どうしたかったのだ?別段真秀が一週間以上連絡してこなかったからって、僕が何か言う必要はないのだし、何かを心配することだってないのだ。それなのに僕はどうして、真秀に電話なんかかけているのだろう?
「いや、何でもない。何してた?」
つとめて平静に、僕はそう切り出す。真秀はいちいちしゃべるのも面倒くさいというような、投げやりな口調で返してくる。
「部屋で漫画読んでた。あなたは?仕事、終わったの?」
「今帰り道だ。これから、電車に乗る」
「じゃあ、あと一時間くらいしたら、行くね」
それだけ言って電話は切れてしまった。別段そんなつもりじゃなかったのに、と思う。だけどわずかばかりの会話の様子からして、真秀もおそらく暇を持て余していたのだし、まあ別に構わないさ、と考えることにした。
だけど何かいつもと違う、違和感がある。真秀との会話をこんな風に切り出したことはなかったし、こんな風に打ち切ったこともなかった。何が違うんだろう。電車に揺られながら僕は考えて、そのうち、肝心なことに思い当たった。いつもと違って今日は、お互いにサーヴィスと対価についての取り決めをするのを忘れたのだ。