スイヒラリナカニラミの伝説
(20/32)
〈一九九七年六月一四日〉
「ねえ、何考えてるの?」
そう言って僕の頬をちょんとつついた、今夜のガールフレンドは中学の同級生だ。何をどうやって僕の居場所をかぎつけてきたのか知らないが、ある日突然僕の携帯に電話をかけてきて、それから何度か会って、これまでに二度セックスした。どうやら今のところ怪しげな英会話テープや健康器具を買わされる気配もない。会うたびに僕の友人たちの悪口ばかり言うところからすると、どうも条件のいい方から順に男を転々としてきて、とうとう僕の位置まで落っこちてきた、といったところだろう。
「別段、何を考えてるってわけでもないよ」僕は言う。「そうだね、多少考えていることがあるとすれば、すいかのことだな」
「何それ、変なの」
彼女は笑うけれども、きっとそれが猫の名前であるなどとは思いもよらないだろう。もちろん、分かってもらえることを期待して発言したわけではないし、別に構わない。それに彼女だって、実際のところ僕が今何を考えているかに、そんなに興味があるわけではないのだ。きっと。
「あたしのことも、少しは考えてくれる?」
「どうかな」
キッチンで立ったまま、僕らはキスをする。彼女の腰に手を回しながら僕は、中学の頃より太ったな、と思う。もちろんそれ自体は悪いことではないし、子供の頃は痩せぎすだった女の子が歳相応に丸みを帯びてくるのはむしろ魅力的だと思うのだけど、彼女の場合、間近で見た頬の表面がずいぶん荒れていたから、これはまともな食生活をしていないな、と思ったのだ。
これから僕がすべきことは分かっている。彼女も、長い距離を飛びすぎたために休息を求めている、一羽の小鳥なのだ。いずれ来るべき時には、彼女も当然のように僕のもとを飛び立っていくのだろう、これまで僕から離れていった幾人ものガールフレンドたちと、同じように。
腰に回していた手を少し上げて、服の上からブラのホックをぱちん、と外した。それだけで彼女はもう、キッチンの床に崩れ落ちそうな勢いで、僕にもたれかかってくる。いささか過剰な演技だな、と思う。だけど、そういうものが必要な時ってあるものだ。
互いを絞め殺そうとする二匹の蛇みたいに、僕らの身体が絡み合う。彼女の服を脱がせるスピードに合わせて、勃起をコントロールする。それから彼女の手も僕の衣服にかかり、さてベッドルームに移るタイミングはいつだろうと考え始めた、その時。
――ばあん、と乱暴な音がした。ベートーヴェンの言う「運命がドアをノックする音」というのは、きっとこんな音に違いない。ともかく僕は、足首で丸まっていたズボンを引き上げてベルトを締め、音のした玄関の方へ駆け寄ってみる。ドアの覗き窓から、外を見る。何もない。
そうっとドアを開けると、途中で何かにひっかかって、それ以上ドアが開かない。半開きのドアから顔を出して、僕は外をうかがった。すると――そこには、マンションの通路、むき出しの冷たいコンクリートの上には、里佳が寝ていたのだった。
「おい、何やってんだよ」
「んー……」
その受け答えで、里佳がひどく酔っていることが分かった。とにかく、このまま家の前で寝られても困る。とにかく立たせようと、里佳の腕を掴んで、持ち上げようとすると、
「うえええええ」
よりによって里佳は、僕の家の前で嘔吐した。思いのほかひどい状況だ。とにかく肩を支えて立たせ、部屋の中に引っ張り込む。どうにか家の中に入れてドアを閉めると今度は、玄関でうずくまり、また吐いた。急遽僕はガールフレンドの靴を避難させて、その結果、僕の靴が一足駄目になった。
「おい、こら。吐くんだったらトイレ行って」
立つことも歩くこともままならない里佳を、どうにかトイレに押し込んだ。トイレのドアを閉めて、玄関の惨状に目をやり、僕は少しばかり憂鬱な気持ちになった。憂鬱な気持ちは僕だけではなかったようで、いつの間にかちゃんと服を着ていたガールフレンドが、僕の隣で小さくため息をつき、こう尋ねてきた。
「知り合い?」
「まあね」
「じゃ、あたし帰るね」
どうやらすっかりその気をなくしてしまった彼女は、里佳の嘔吐物を跨ぎ越え、終電も終わった中を帰っていった。きっと彼女は二度とこのマンションに来ないだろう、と僕は思った。それでいいと思う。巣立ちのときが少しばかり早まっただけのことだ。
玄関の掃除には手こずった。見た目は以前とすっかり変わらないところまで改善されたが、まだ部屋中に嘔吐物の臭いが漂っているような気がする。里佳は放っておくとトイレで寝てしまいそうだったので、吐くだけ吐かせてから水を少し飲ませ、ベッドまで抱えて運んでやり、それから服をゆるめてやった。
それにしても、何かあったのだろうか。里佳が酔っ払って僕の部屋に来ることは珍しくなかったけれど、こんなに泥酔した里佳は初めて見たし、どんなに酔っていても里佳は、僕のところに来る前には電話くらいしていたのだ(だからこれまで、他のガールフレンドと鉢合わせることはなかったのだけれど)。何か、劇的な心境の変化でもあったのだろうか?
「……んんーっ……」
時折、里佳がうめき声を上げる。意識がどの程度保てているのかは、分からない。見たところ、急性アルコール中毒で救急車の厄介になるほどではないと思うのだけれど、一応、意識を確認しておいた方がいいかもしれない。僕は里佳に声をかけることにした。
「里佳、里佳、起きてる?気分悪い?」
「ん、うーん……気持ち悪い」
「まだ吐きそう?」
「んー……」
果たして僕の言葉が里佳に届いているのかどうか。里佳は目を閉じ、身体をくの字に折り曲げて、何かごにょごにょと呟いている。それが僕の呼びかけに対する受け答えなのか、それともまるで関係のない何か別のことなのか、判別できるほど明瞭には聞き取れない。
里佳の言葉をもっとよく聞こうと、僕は里佳の口元に頬を寄せた。胃液と半消化の食べ物の混ざった、酸っぱい空気を感じた。老魔女の呪文みたいに唇の内側だけで沸騰し、外側に飛び出してこない言葉の、どうにか感じ取れる破片をかき集めて、僕は里佳に少しでも近づこうとする。
「どうしよう、どうしたら……わかんないよ……そんなの、まだ……」
僕よりも里佳の方が混乱し、また困惑しているようにも見えた。僕には相変わらず里佳に何があったのか分からないのだけれど、ともかく今日の酒が祝い酒でないことは推察できた。
「……里佳お料理下手だし……愛想悪いし……貯金ないし……」
また始まった。そう思って、僕は里佳の頭をくしゃくしゃと撫でてやる。「大丈夫だよ」いつものように、そう言ってやる。「大丈夫だよ、おやすみ」
「うーん……」
里佳はむずかる子供のように手足を動かす。ゆっくりと頭を撫で続けてやると、そのうち呼吸が穏やかになってくる。このまま安らかな睡眠に向かってくれるものと思い、僕は少し気をゆるめた。その時を狙いすましたように、里佳は不穏な言葉を口走ったのだ。
「……子供……」
「え?」
僕は反射的に問い返す。だけどその時にはもう、里佳は寝息を立て始めていて、僕にはどうしようもなかったのだった。子供が、どうしたって?悪い予感がした。あまり当たってほしくない予感だ。だけどもし僕の考えるとおりであるなら、すべてつじつまが合う。
玄関近くに放り出してあった里佳のハンドバッグを開けた。財布と化粧ポーチ、それから、保険証。保険証だ。里佳が毎日保険証を持ち歩いているとは思えない。今日はわざわざ保険証を持って出かけたのだ。財布を開ける。お金と、クレジットカードと、レシートの束。レシート。広げてみる。コンビニでおにぎりとお茶。本屋で雑誌一冊。デパートでパンティストッキング二枚。それから――今日付けの、産婦人科の領収証。
――どうやら僕の直感は正しかったらしい。僕はすべてを元通り、里佳のハンドバッグにしまった。だけどそれからどうすればいいのか、僕にも分からない。子供だって?産婦人科?だけどそれは、誰の子供なのだ?僕より料理もセックスも愛想笑いも下手な、件の彼氏だろうか。それとも、あるいは。
そんなはずはない、と自分に言い聞かせる。これまで僕が、どれだけ避妊に気を遣ってきたことか。いつ誰と何回セックスするか、まったく気にせず流れに任せていた僕が、唯一神経質になっていたのが、避妊のことなのだ。間違いのあるはずがない。きっと例の彼氏の子供なのだ、そうに違いない。
だけど、万が一ということもある。
頭の中が夕立の後みたいにぐちゃぐちゃになる。ひどく落ち着かない。何かとても大切なものを欠いているような、そんな不安がある。僕はキッチンからブランデーの瓶を持ち出してきて、コップすら出さず、瓶に直接口をつけて飲んだ。そうしたらいい具合に頭がぼうっとしてきたので、眠ることにした。一眠りして、目が覚めたら、里佳と何か話ができるだろう。そんなことを回らない頭で考えつつ、僕は里佳の隣にほんの少しのスペースを確保し、猫のように丸くなって、眠った。
翌朝僕が起きたときには、里佳の姿はもう、なかった。服も靴もハンドバッグもなかったから、忘れ物をすることもなく無事に帰ったのだ、と思った。
里佳に電話をかけて、昨日のことを聞こうと思ったけれど、携帯を手にとって十五秒逡巡し、結局やめた。話したくなったら、里佳の方から話してくるだろう。僕があまり詮索しない方がいい。
僕は一人でコーヒーを淹れ、一人で新聞を広げた。こうしているとまったく普通の、当たり前の朝だ。だけど、今度里佳から電話がかかってきたら、僕は今までと同じように、穏やかな受け答えができるだろうか?何かが終焉に近づいているのだ。そう覚った。