スイヒラリナカニラミの伝説
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〈一九八九年七月一四日〉


 いい子だから、というのが合図だった。
 母は僕を大声で怒鳴りつけたり、泣きながら叱ったりするようなことは、絶対にしない。その代わり僕の頭を胸にかき抱いて、あやすように、脅すように、いい子だから、と囁くのだ。それは母の怒りが頂点に達していることを表すサインであり、そう言われたときには僕は一切母に逆らうことができないのだった。
 いい子だから、お勉強しなさい。いい子だから、静かにしてなさい。いい子だから、言うことをききなさい。いい子だから。
 どうして母がそんな言い方をするようになったのか、分からない。気に入らないことがあるとすぐに怒鳴り散らし、当たり散らす父への、ある種の対抗意識だったのだろうか?だけど父の話も僕は母を通じて聞いただけで、実際のところ父とは四歳の頃から会っていないのだから、よく分からない。
 夫と早々に離婚し、保険の外交員をしながら、女手一つで僕を育てている、母。その神経にはどこかぴんと張りつめたものが通っていて、それが何か生きた人間のものではなく精密機械であるようで、僕には不気味に感じられてならないのだった。


 その日は僕の十五歳の誕生日だったけれど、母の帰りは遅かった。そんなのはいつものことだ。僕が中学校から帰ってきたとき、居間のテーブルの上には、一万円札が一枚、無造作に置かれていた。どうやらそれが僕の誕生日プレゼントらしい。取り立てて何の感銘も受けることなく、僕は一万円札を取り、自分の机の引き出しにしまった。これで何を買うということもない。
 すっかり遅くになっても、まるで母の帰宅する気配はなかったから、僕は仕方なくカップラーメンを作って食べた。別段、バースデーケーキを期待しているわけではなかったから、それもやはり特別何の感動もない、ただの夕食だった。テレビのニュースでは革命の二百周年を祝う記念行事の模様が流されている。だけどそれは遙か海の向こうの出来事だから、僕にはやはり何の感動もない、いつものニュース番組なのだった。
 テレビ番組がすっかりつまらなくなり、数学と英語の宿題を片づけ、パジャマに着替えて歯も磨いて、日付の変わる頃になっても、まだ母は帰ってこない。そんなのも、別段珍しいことじゃない。僕は一人で先に寝ることにした。布団にもぐって、電気を消した。
 それから僕は夢を見た。中学で同じクラスの女の子の夢だ。特段その子のことが好きだというわけでも、何か特別魅力的なものがあるわけでもなかったから、どうして夢の中に出てきたのか、分からない。ただ彼女はクラスで一番胸の大きな女の子だった。そして、夢の中では全裸だった。
 全裸の女の子が僕の目の前で四つん這いになって組体操の練習をしている、そんな夢の最中で目が覚めた。母が帰宅したせいだ。とはいえ部屋は真っ暗だったし、僕も目が覚めたばかりだったから、周囲の状況を理解するには時間がかかった。どうにか意識が明瞭さを取り戻してきたのは、アルコールの臭いのする呼気と、生温い体重を全身に感じ取ったからだ。母の指が僕のペニスを乱暴に握り、その時初めて僕は、布団に入る前にちゃんと着たはずのパジャマを、もはや自分が着ていないことに気づいた。
「いい子だから、いい子だから……」
 母親が呪文のように呟く。それだけで僕は、大蛇に補食される直前のカエルみたいに、身動きが取れなくなる。絶対に、母に逆らってはいけないのだ。ただ人形みたいに大人しく、静かにしていさえすれば、すべて無事に過ぎ去っていくのだ。僕はそう、学習していた。
 それでも母の舌が僕のペニスに沿って這い上がってきたときは、悲鳴を上げそうになった。それは僕がこれまで母から被った、唯一の、そして最大の暴力だったのだ。母が僕の上に馬乗りになる。僕は自分が母に絞め殺されるのではないかという恐怖にかられた。それでも大人しく、いい子でいるために、僕は唇の端を噛みしめ、目を閉じた。
 目を閉じたら先刻の夢のことを思い出した。僕は先頃夢に見た、同じクラスの少女の裸身を、必死で思い浮かべた。この空想が途絶えたらその瞬間に喉を締め上げられて死んでしまう、そう錯覚するくらいに、必死だった。だけど僕は女性器のディテールをどうしても思い浮かべることができず、夢の中の少女の股間はどうしたってマネキン人形みたいに真っ平らなのだった。そのうち、皮膚の内側を食い破って現れる寄生虫のような、絶望的な射精感がペニスの裏側を駆け上ってきて、僕の空想をすっかり台無しにした。
 母は病人の身体を拭くみたいに丁寧に、タオルで僕のペニスを拭き、それから、元通り僕にパンツを穿かせ、パジャマを着せた。それから「いい子だから、このまま、おやすみなさい」と優しく囁いた。僕は眠ったふりをした。
 母がすっかり寝入ったことを確認してから僕は起き出し、トイレに引きこもって、便器に顔を突っ込んでげえげえと吐いた。カップラーメンの麺が喉の奥にからまったような気がして、ますます気持ち悪くなり、繰り返し何度も、何度も吐いた。