スイヒラリナカニラミの伝説
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〈一九九九年七月二九日〉


 あんまり暑いから、ビールを買って帰ることにした。帰り道のコンビニに立ち寄り、缶ビールを一本とカシューナッツを一袋、カゴに放り込む。それからふと、真秀はビールなんか飲むだろうか、と考える。僕だって高校生の頃にはビールくらい飲んでいたのだし、今時分の高校生がお酒も飲んだことがない、なんてことはないだろう。だけど、真秀がビールなんか好きかどうかは、さすがに分からない。
 ビールに限った話じゃない。僕は真秀の食べ物の好き嫌いを何も知らない。例えば僕は今、カシューナッツを買って帰ろうとしている。僕はカシューナッツもピスタチオもアーモンドも大好きだ。だけど真秀はナッツなんか嫌いかもしれない。吹き出物が増える原因になると思って、食べるのを控えているかもしれない。もしかして、アレルギーがあって食べられないかもしれない。そんな可能性のどれ一つとして、実際のところはどうなのか、まったく分からないのだ。
 僕は一度カゴに入れた缶ビールを棚に戻し、一回り大きなサイズの缶を取った。これなら二人で飲むこともできるし、真秀が飲まないようなら僕一人で飲み干すこともできる。カシューナッツはそのままに、新たに小さなカップ入りのアイスクリームを一つ、カゴに追加した。これなら、真秀が食べているのを見たことがある。
 そんなことを考えながら買い物をするのも、どこか奇妙な感じがした。別段、気にすることはないのだ。真秀のことなんか気にせず、自分の食べたいものと飲みたいものを買って帰ればいい。そう思いながらも、果たして買うものはこれでよかったろうかと、レジの女の子がバーコードに缶ビールを通している間でさえも、僕は考えていたのだ。


 僕が帰ると既に、真秀がマンションのドアの前で待っていた。一時間くらいしたら行く、というさっきの電話から、四十分しか経っていなかった。どうしたんだ、と尋ねたら、退屈だったから、と返答があった。だけど自分の部屋で一人漫画を読んでいるのと、僕の部屋の前で一人待ちぼうけを食わされているのと、どちらがより退屈なのだろう。大差ないように思える。
「なんか、汗くさいね」
 僕の胸元にわざとらしく顔を近づけて、真秀がそう言う。当たり前だろう、と僕は答える。真夏の夕べに、仕事から帰ったばかりで、汗くさくない男なんてそうそういるもんじゃない。だけど真秀は、僕の考えていることとは、少し違ったことを口にした。
「だっていつもあたしが来るとき、あなたはもうシャワーを浴びたあとで、部屋には冷房が効いてて、ってそういうイメージがあるから」
「そうかな?」
 そんなことを意識したことはない。単に、女の子と会う前にシャワーを浴びるのが習慣になっているだけかもしれなかった。過去にベッドを共にした女の子たちから、何がしかの影響を受けているのかもしれない。
 鍵を開けて部屋に入るときも、真秀は僕に必要以上に近づいて、やたらに何かを観察しているようだった。コンビニの袋を覗き込んで、やたらに感心したような声を上げる。
「へえ、ビールなんか飲むんだ」
「たまにはね」冷蔵庫にビールを放り込んで、答える。「そんなに珍しい?」
「なんか、ちょっと不思議な気がしたの。あなたがお酒飲んでるのって、見たことないから」
「そりゃあ……」
 お酒なんか飲んだら、真秀の宿題ができないからね。そう答えようとして、僕はふと口をつぐむ。そう言えば、初めてだ。お金の受け渡しをして宿題を手伝ってやる、そういう取り決めをしないで、真秀と会うのは。
 僕がネクタイを解いて、クローゼットにしまっている間に、真秀はクーラーの電源を入れた。うーん、というモーターの回転音が低くうなり、それから、冷気の吐き出されるささやかな音だけが鳴り響く。やけに静かだった。真秀は椅子に座って、膝をちょこんと揃えて、妙に姿勢を良くして、何を考えているのだか分からない表情で、こっちを見ている。
「――ねえ」真秀が、静かに口を開く。「今日は、どうするの?」
 どうする、だって?本当に、どうしたらいいのだろう。もちろん、いつもしていることなのだ。真秀は僕のペニスを手か口か何かで刺激して、僕はそれに対価を支払う。とても簡単なことだ。だけどその簡単な契約は、いつも電話やメールでなされてきたのであって、僕はこんな取り決めをしている最中の真秀の表情とか、呼吸とか、仕草とか、そんなものを見るのには慣れていなかったのだ。
 しばらく、言葉が出なかった。口の中が渇いてきたような気がして、僕はわざと唾を飲んだ。
 真秀が昼寝に飽きた猫みたいに、不意に立ち上がった。そのまま僕に寄り添い、軽く頬にキスをする。真秀の髪も僕と同じで、汗のにおいがした。僕らはどちらからともなく、もう一度キスをする。僕の手が真秀の肩に触れると、何かに驚いたみたいに、びくり、と過敏に反応した。そうだ、本当にどうしたらいいのか、僕は分かっている。とても簡単なことだ。僕の指は真秀の背中から腰へ滑り降りていき、スカートの内側に潜り込む。真秀のショーツの股間は少し湿っていたけれど、それが汗なのかどうかは、分からない。
 二人の身体が絡み合ってもつれて倒れそうになり、その拍子に机にこつん、と触れた。そうしたら机の上でガラスの小瓶が倒れて少し転がり、からから、と音を立てた。頼むから、邪魔をしないでくれ、と僕は思う。汗で少しべとつく真秀の身体を抱き寄せながら、思う。大丈夫だ、僕はもう間違えない。失敗するわけにはいかない。