スイヒラリナカニラミの伝説
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〈一九九五年三月二四日〉


 何がどうなっているのかさっぱり分からない。高架沿いの薄暗いホテルに二人で入り、彼女がシャワーを浴び始めた今の状況でも、僕にはもう何が何だか分からないのだ。こういう所に入るのは初めてだ。キングサイズのベッド、暖色系の照明、室内には有線で音楽が流れて、それをコントロールするベッドパネルの隣にはティッシュとコンドーム。壁に観音開きの扉がくっついていて、窓か何かかと思って開けたら、大きな鏡だった。まったく、部屋のすべてがセックスに最適化されている。セックスだって立派な消費活動であり、商品としてこの世界を流通するのだ。そのことを僕は思い知らされている。
「あたしね、ずっとあなたとセックスしたかったの」
 ここに入るときに、彼女はそう言った。
「考えれば考えるほど、不思議な気がする。だってあたしはさっき、自分からは手も握りたくない男とセックスして、そのおかげで得た二万円で、世界でいちばんセックスしたい男の子とセックスすることができる。これって何か、この世界を動かしている仕組みに直結しているような、そんな予感がするの。あなたは、どう思う?」
「――分からないよ」
 そのとき僕はそう答えたのだし、それから二十分ぐらい経った今でも分からないままだ。バスルームとベッドルームを仕切る壁には、意味もなく小窓が開いていて、二の腕あたりを洗っている彼女の姿がこちらから見えるのだった。それを見たいのか、見たくないのか、自分でもまるで分からない。ただとにかく僕は、手をつないでこの部屋に入った瞬間からずっと、勃起したままなのだった。
 裸身にバスタオル一枚だけ巻きつけて、彼女がバスルームから出てくる。彼女の肌は淡い薄紅色に上気していて、束ねた髪の先からは水滴がしたたっていた。服を着ていないせいだろうか、彼女の身体は普段よりずっとか細く見えて、不用意に触れたらそこからぽきりと折れてしまうのではないかと思った。
 彼女が僕にキスをした。そんなのは、いつものことだ。僕らはこれまで数え切れないほどキスをしている。だけど今日はどうしたって唇が震える。肩に力が入る。
 僕は何をしているんだろう。ずっと僕は、彼女を抱きたいと思っていたはずなのだ。いつも衣服に包まれている、彼女の乳房や性器を想像し、マスターベーションをしたことだって、少なからずある。ずっと触れたいと願っていた彼女の肉体が、今まさに手の届くところにあるのに、僕は何故か戸惑っている。しかも、何に戸惑っているのか、よく分からないのだ。
「ねえ、しよう」
 彼女が優しく囁く。バスタオルが魔法みたいにするりと解けて逃げ出す。間近で見る彼女の両の乳房は想像以上に真っ白で、透き通るくらいだ。僕の指先が軽く乳首の先に触れただけで、彼女はびくん、と過敏に反応した。それは僕の知っている彼女とはまるで別人のようだった。
 彼女の股間に手を伸ばした。さっきシャワーを浴びたばかりの彼女の陰毛は微かに湿っていた。陰毛をかき分け、性器を探り当てると、そこも温かく湿っていた。だけどそれはシャワーの温水とは明らかに異なる湿り気だった。
「あっ……」
 かすれ気味にこぼれる彼女の声も、これまで僕が聞いた彼女のどんな声とも異質なものだった。僕の目の前にいるのは、本当に彼女なのだろうか?誰か別の女の子が、彼女のふりをしているだけではないのか?そんな馬鹿げた不安すら、思い浮かべてしまう。
 迷いを振り払うように半ば強引に、彼女をベッドに押し倒す。自分の衣服も丸めて投げ捨てながら僕は、彼女の太股の間に顔を埋めた。彼女の陰毛は太く短く、狭い範囲に密集して生えていた。陰唇を指で押し広げるとその奥に、生まれたての異星人の幼生みたいな、不自然なまでに鮮やかな桃色の膣口が見えた。
 彼女のクリトリスは、そこに乳首がもう一つあるみたいに大きかった。そのクリトリスにキスをして、それから、性器全体を乱暴に舐め回した。そのうち、彼女の膣の奥から、僕の物ではない精液がにじみ出てきて僕の喉に絡みつくような、そんな恐怖を感じた。彼女の股間から唇を離すと、僕の口の端から彼女の性器まで、粘液がすっと糸を引いた。
 僕は枕元にあったコンドームを手に取った。だけど手元がおぼつかなくて、コンドームの包みを開けることすらままならなかった。そのとき初めて僕は、自分がどれほど動揺しているかを知ったのだ。それと同時に、ペニスから急速に血の気が失せていくのが分かった。駄目だ、いけない。焦れば焦るほど手元は狂い、コンドームのパッケージは指の間でくしゃくしゃになり、そうする間にペニスはどんどん硬度を失っていく。
 ようやく包装を破いてコンドームを取り出したときにはもう、僕のペニスは猫みたいに柔らかくなっていた。それでも僕はどうにかセックスを完了させようと、コンドームをペニスに被せようとした。もちろん、無駄な努力だった。
 どうして、こんな時に限って。すっかり役立たずになったペニスを見つめ、僕はうなだれる。こんな僕の姿を、彼女はどんな目で見ているのだろう?僕には彼女を正視することは、とてもできない。


 すっかり弱りきっていた。僕は三ラウンドでKOされたボクサーみたいに、呆然と中空を見ながら、ベッドの上にぺたんと座り込んでいる。もう何十分経ったのだろう。彼女は僕をいたわるように、何も言わずただ寄り添っていた。そのことが却って、僕にとっては心苦しかった。どうして僕はセックスひとつ、まともにすることができないのだ?
「上手く、いかないものね――」
 彼女が突然口を開いたから、僕は自分が責められてるような気になって、びくん、と肩をそびやかした。だけど彼女は特段詰問するような調子でもなく、いつものように穏やかに、話を続けるのだ。
「ねえ、どう思う?あたしはすべてを単一の言語に翻訳するこの世界のシステムに身を委ねて、この世界の法則に基づいて自分の欲しいものを手に入れようとした。だけどもしかしたら、このやり方に従っている限り、あたしは本当に欲しいものを手に入れることはできないのかもしれない。やっぱりこの世界は人をいっぱいに詰め込んで走る満員電車みたいなもので、そのことは何か人間の尊厳に決定的な打撃を与えているような、そんな予感がするの」
 そんなことを言われたって、何かを考えて受け答えをする余裕は、僕の方にはない。股間ではペニスまでも所在無げにうつむいている。
 またしばらく沈黙が続いた。どのくらい時間が経ったのか分からないけれど、そろそろこのホテルに入ってから二時間を過ぎて、料金が追加になる頃だと思った。やがて彼女がゆっくりと、重い鉄扉を押し開けるように、口を開いた。
「――ごめんなさい」
 彼女が何について謝ろうとしたのか、僕には分からない。彼女はそっと僕の脇に身を寄せてくる。僕の腕に彼女の裸の胸が、ふわりと押し付けられる。
 それから彼女は手を伸ばした――僕の股間の方へ。彼女の指がそっと、怪我人の患部をいたわるみたいに、僕のペニスを撫でた。その時僕は、彼女の手はこんなときでもどうしてこんなに美しいのだろう、と唖然としたのだ。彼女の手指はすらりと細長く、花嫁のウェディングドレスだって嫉妬するくらい真っ白で、一流の白磁器や大理石像よりもっと、美しいのだった。
 その瞬間僕は勃起した。肝心の、彼女とセックスするときにはまるで役に立たなかった僕のペニスが、彼女の美しい手に包まれた途端、脱皮するみたいに勃起したのだ。どうして、今になって。ただとにかく僕のペニスは今にも破裂しそうなまでに怒張していて、今なら彼女とのセックスも完遂できそうだった。
 だけど彼女は僕の背中に胸を押し付けたまま、ただ黙々と右手でペニスを撫で続けるのだ。それは、何かが決定的に間違った行為であるように思えた。とはいえその一方で、彼女の指が離れた瞬間に僕のペニスは強度を失い、すっかり萎縮してしまうに違いない、そんな気もしたのだ。駄目だ、これじゃいけない。そう分かってはいたけれど、僕には何もできず、ただ座ったまま彼女がペニスをさするのを見ていることしかできなかった。
 そのうち僕は射精した。僕の精液はそのまま僕の腹の上に落ちてきた。彼女は僕の耳元に口を寄せて、もう一度ごめんなさい、と囁いた。返す言葉はなかった。