スイヒラリナカニラミの伝説
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〈二〇〇一年XX月XX日〉


 どこまでも闇だ。どれほど目を見開いても僕には、自分自身の指の先すら見えやしない。あるいは僕の視覚そのものが既におかしくなっているのかもしれない。何が起こったのだろう。
 そうだ、僕はビッグ・マザーと戦っていたのだ。不意に思い出した。だけどいったい何が起こって、僕は今どんな状態に置かれているのだろう。自分の肉体の輪郭すら知覚できない状態。ということは僕は、ビッグ・マザーに敗北したのだろうか?
「男がいたのヨ、だらしない男。お墓に入れるのに、指がどこにも見つかんないのだワ。頭はベッドの下、手足は部屋中に散らばって、バラバラ、バラバラ!きははははは」
 甲高い声が耳に突き刺さる。ああ、うるさい。気に障る。まったく、ところで、この声の主はいったい誰だったろう?でも、誰だっていいのだ。だって僕の身体はもう動かない。ビッグ・マザーと戦うことはもう、できない。だからもう何だっていいじゃないか。
「――いけない」
 目覚まし時計みたいに、少女の声が鳴り響く。ああ、本当にうるさいな。もういいだろう。僕は戦った。そして、敗北した。もう十分じゃないか。この上まだ僕に何かさせようっていうのか?
「諦めてはいけない。だってあなたのその剣だけが、世界に自由をもたらす真の力なのだから。自由の創設、それを私たちは革命と呼ぶの。そうでしょう?」
 僕の心臓が、びくり、と脈打つ。彼女の言葉の何かに反応したのだ。今、何と言った?僕は耳を澄まして彼女の次の言葉を待つ。
「革命。そうでしょう?」
 今度は僕のペニスがびくん、と脈打つ。そうだ。そのとおりだ。アリスの言葉に導かれ、僕の身体が少しずつ本来の形を取り戻していく。手が足が頭が指が、集まってきて一個の僕を作り上げていく。
「革命。革命。革命!」
 僕は目覚めた。


 まず僕は両手の指をぱっぱと、握ったり開いたりしてみた。大丈夫だ、ちゃんと動く。それから膝を曲げ伸ばしする。腹筋にぐぐっと力を入れて、起き上がる。足の裏で大地をしっかり噛みしめて、立ち上がる。大丈夫、どこも問題ない。
「ほら、もうあなたは戦える」
 アリスが僕の隣で優しく微笑む。そうだ、もう大丈夫だ。僕は、戦えるのだ。あの尊大で傲慢なビッグ・マザーに、今度こそ引導を渡してやるのだ。僕は一歩踏み出す。周囲の空気すべてが何かを警戒するみたいに、びりびりと震える。
「そう、戦うのよ。戦って、自由を勝ち取るの」
 アリスの言うとおりだ。僕はビッグ・マザーと戦い、勝利して、今度こそ自由を手にするのだ。ビッグ・マザーを倒さない限り、僕が真に自由になることなど、ありえないのだ。いつの間にか僕の手には剣が握られている。そうだ、この剣で、ファルシオンで、ビッグ・マザーを打ち倒すのだ。僕は剣を大きく振りかぶる。
「やめろ。冷静になれ!」
 ビッグ・マザーの叫び声が鳴り響く。
「今までお前が守られ育まれてきたのは、誰のためだと思っているのだ?私を殺せば、お前は唯一の守りを失う。無秩序の、混沌の中に一人放り出され、傷ついてすぐに死んでしまうのだ。分かるだろう。私が戒律であり、順列であり、意味なのだ。私に刃向かうな!」
 耳をふさいでもビッグ・マザーの声は、瞼の裏や鼻の穴を通じて、僕の脳髄に達するのだった。僕の頭蓋骨を内側から乱暴に揺さぶるその声は、うっかりすると再び僕の体をバラバラに砕いてしまうような、そんな力がある。
「大丈夫、戦うのよ」
 こんなときでもアリスの声はとびきり優しい。それだけに、僕は混乱しそうになる。挫けそうになる勇気をどうにか奮い立たせ、剣を握り直して天に振りかざす。天だって?僕らの頭上を覆うのはサファイアよりも青い空、だけど、それはすべてブラウン管に包まれた映像じゃないか。それでも僕はこんなにも青く澄みきった空を見たことがない。なんて皮肉だろう。
「やめろ、剣を捨てろ!」
「さあ、剣を握って!」
 ああ、もう何が何だか分からない。僕はいったいどうすればいいんだ。ただとにかく僕の手には今、ファルシオンが握られている。黒ずんだ巨大な剣だ。その剣に、アリスが手を添える。白くて、とても小さな手だ。ほとんど邪悪とも言うべき黒色のファルシオンと対照的に、アリスの手は神聖なほどに真っ白なのだった。その瞬間に、僕の中で勝敗は決した。
「革命!」
 ファルシオンはこれまでにない速度で成長を遂げた。エッフェル塔より、ビッグ・ベンより、マンハッタンより大きくなって、月だって真っ二つにできそうな大きさになったファルシオンが、ついに天井を覆っていたブラウン管を叩き割ったのだ。蜘蛛の巣みたいに亀裂が走って、そのうち世界中がひび割れて、無数の断片へと砕かれていった。
「やめろおおおおおおおおおおおおおぉっ」
 ビッグ・マザーの断末魔の叫び。
 僕はファルシオンを力任せに振り下ろす。飛行機雲みたいに真っ白な線が一条、空を切り裂く。天と地と海と、何もかもが震え出し、崩れ落ちていく。そうだ、ビッグ・マザーとはこの世界すべてだったのだ。そしてそれは今、一瞬で崩れ去り、見る間にただの瓦礫の山と化した。もう、何も残っていない。僕とアリスの立つ場所さえも。


「おめでとう」
 優しい声がする。
「おめでとう」
 とても優しい声だ。そうだ、僕はずっとこの声を待っていた。アリスの声。ビッグ・マザーは滅んだのだ。もう、誰にも邪魔されることはない。自由、そう、自由だ!
「おめでとう、あなたは戦った、そして、勝った。ビッグ・マザーはもういない、安心していいのよ」
 そうだ、その通りだ。だけどアリス、アリスは、どこにいるんだ?
「おめでとう」
 もう一度、声がした。空気がびりりと震えた。この不吉な感触は、身に覚えがあった。僕は天井を見上げる。ああ、それは、本当に絶望的なブラウン管だ。
「おめでとう、あなたは勝った。だから、もうファルシオンを手にすることもない」
 そう言われて僕は、自分がもはや剣を握っていないことに気づく。そして、ずっと隣にいたはずのアリスの姿ももう、ない。僕は途方もなく堅固な世界の真ん中に立っている。発酵したような臭いの渦巻く大地は湿っぽくて、天井のブラウン管越しに見る空は完璧に美しい。
「おめでとう、あなたは勝ったのよ。これからはビッグ・マザーでなく、私が、この世界に戒律をあげる。だからあなたは、もう戦わなくていいの」
 それは無限に終了しない死刑宣告のようなものだ――アリスが、ビッグ・マザーに取って代わったのだ。僕の戦いは、本当に何もかも、終わった。