スイヒラリナカニラミの伝説
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〈一九九九年七月二九日〉
冷房をかけ始めたばかりの部屋はまだ暑く、僕らの身体は汗でべとついている。にもかかわらず、真秀は少し震えているように見えた。別段、そんなに緊張するようなことじゃない。いつもと同じことだ。ただ少し、ほんの少しの違いなのだ。
だけど動揺しているのは僕の方かもしれなかった。ベッドの上で身動きせずにいる真秀の衣服を脱がせようとするけれど、いつになく手際が悪い。ベルトを外しジーンズを脱がすのに手こずる。脱がせたと思ったら、ジーンズが足首に絡んで抜けない。ようやく露わになったストライプ柄のショーツは、股間の部分が少し汚れていた。
真秀の緊張を紛らすように、そして自分自身の緊張を誤魔化すように、むやみにキスをする。別段、真秀の裸を見るのは初めてではないし、いつもお互いに触ったり舐めたりしているのだ。今さら何を戸惑う必要がある?だけど、どんなに自分に言い聞かせたところで、僕の手は震えているのだった。
落ち着け、冷静になれ。今まで自分が何人の女の子とセックスしてきたか、思い出してみろ。自分から積極的にセックスしたい時でなくても、それどころかほとんど義理か義務でセックスしなきゃならない状況にあっても、僕は何とかしてきたのだ。それと同じことだ。ほら、僕の目の前にはこんなに魅力的な女の子が裸で寝ていて、僕はこれからこの少女のバージンをいただくのだ。素晴らしいじゃないか。
それでも僕の頭のどこかで、からから、と乾いた警鐘が鳴り響く。ああ、うるさい。頼むから今だけは黙っていてくれ。小瓶に封じられた魔神か、そうでなければ亡霊みたいな、君。これが終わったら、いくらでも恨み言を聞こう。だけど今は、今だけは静かにしていてくれ。君は僕にまた同じ失敗をしろというのか?
下着も全部脱がせて、真秀の股間に顔をうずめる。むわっとした、湿気とも熱気ともつかない何かが、鼻先を襲った。真秀の汗や体臭を全部集めて濃縮したような、そんな感じだ。クリトリスに少し触れてやっただけで、真秀の身体は電気でも通したみたいに跳ねた。呼吸が荒くなる。まるで肉食獣に食い殺される最中のガゼールみたいに、真秀はぜえぜえと苦しそうな息を吐き出す。
大丈夫だ、僕はもう間違えない。実際、あれから二度と失敗していないじゃないか。コンドームの封を切る。ペニスに被せようとして、だけどどうしても上手くいかない。畜生、これじゃあの時と同じじゃないか。からから、からから。机の上のガラスの小瓶が、僕を馬鹿にしたように笑い出す。そして僕はようやく、コンドームが裏返しであることに気づいて、それを捨てて新しいパッケージを開けた。
大丈夫、大丈夫だ。ちゃんと勃起している。コンドームをすっかり装着して、僕はペニスを真秀の膣口に添える。だけどこうして見ると真秀のヴァギナはやはり、小さい。ほんとうに僕のペニスがこの中に入るのだろうか?
「――真秀」
名前を呼んだだけだったけど、真秀は何も言わず、目を閉じたまま、ただ首だけを縦に振った。ペニスの根元に手を添えて、真秀の入り口に正確に狙いを定め、少しずつ、押しつぶすように、体重をかけていく。
「……やっ、痛っ、痛い痛いっ」
真秀が初めて声を上げた。彼女の顔はくしゃくしゃだったし、頬は真っ赤になっていた。だけど僕のペニスはまだほんの先も入ってはいない。だから、ここでやめるわけにはいかなかった。
「痛い、痛いよっ……」
僕はより深く真秀の中に入っていこうと、力を入れる。だけど頑迷に抵抗する力が働いているような、あるいは、扉が閉ざされているような感じで、まったく前に進まない。下手に体重をかけると、僕の陰茎が半ばから折れてしまうような気さえした。やはり無理なのだろうか?真秀のヴァギナは、僕には小さすぎるのだろうか?
ペニスから血の気が引いてきているような気がした。とたんに脂汗がだらだらと、額からこめかみの方へと伝っていくのが分かった。駄目だ、ここで失敗するわけにはいかないんだ。僕はほとんど意固地になったみたいに、無理矢理身体を真秀の方に押しつけていった。だけどペニスだけが押し戻されているみたいに、どうしてもそれ以上入っていかない。
からから、からから。彼女が笑う。ああ、可笑しいだろう、笑うといい。確かに君の言うとおりだ、何だって上手くいかないものだ。だけどもう十分だ、もう黙っててくれ。僕は真秀とセックスをしているんだ。やり遂げなきゃならないんだ。
僕は真秀の腰を両手で掴んだ。真秀の身体は想像以上に軽く、腰がふわりと持ち上がった。そのまま真秀の身体を、強く僕の方に抱き寄せた。その拍子にぶちん、と、何かが壊れた。
「――ぎっ」
食いしばった真秀の歯の間から悲鳴が漏れた。その瞬間、僕はあっさりと射精した。果たして上手くいったのかいかなかったのか、僕にもよく分からなかったし、真秀はきっともっと分かっていないだろう。ともかく、終わりだった。
真秀のヴァギナから引き抜いた僕のペニスは、全精力を使い果たしたみたいに、ぐったりとうなだれていた。だらしなくぶら下がったコンドームの先端には、自分でも呆れるくらい大量の精液が溜まっていた。あまり上手ではなかった、だけどとにかく、やり遂げたのだ。
真秀の目尻には微かな涙の痕さえ見えた。よほど痛かったのだろうか?いたわってやろうにもかける言葉が思い当たらず、僕は黙って真秀の肩をぽん、と叩いた。だけど真秀は怯えたように、肩をそびやかす。ごめんよ、という言葉が僕の口をついて出そうになったので、慌てて押し戻した。それではまるで僕が悪いことをしたみたいだからだ。
差し当たり今の僕にできることと言えば、用済みのコンドームを外して縛って捨てることくらいだ。真秀と目を合わせることができない。どう接したらいいのか分からないからだ。僕は何か恐ろしいものでも見るように、横目で真秀を窺った。真秀は眼鏡のブリッジを指で押し上げた。眼鏡?そうだ、こういうときに真秀が眼鏡をかけているのも、初めてだ。いつもなら必ず眼鏡を外して机かテーブルか、どこかそのへんに置く。
そのせいだろうか?真秀はいつものような完璧な商売人の顔を、今日はできていないように思える。今の真秀には、僕のペニスから金をむしり取る熟練の娼婦の気配は微塵もなく、ひどく儚げで弱々しく見えた。
だけど真秀は煩わしそうに上体を起こすと、僕の方ににゅっと手のひらを突き出して、それから、微笑みさえ浮かべながら、こう言い放ったのだ。
「――ねえ、お金、ちょうだい?」
いったい何を言い出すのだ?僕は面食らって、呼吸することすら忘れる。僕はようやく真秀の顔を正視して、彼女が何を考えているのかその表情から読み取ろうとした。だけど、分からない。真秀は微笑しているのだ。だけどその微笑は今まで真秀が見せたどんな表情とも異なっていて、それがどんな感情を反映し、あるいはどんな感情を隠そうとしたものであるのか、僕には判断する材料がない。――その上、真秀の頬を真新しい涙が一滴、天使みたいに通り過ぎていったのだ。そして僕の胸元に突きつけられた真秀の手。何を考えているのだ?僕はどうすればいいのだ?
僕のすべきことが、財布から紙幣を取り出して真秀に手渡すこと、ではないことは分かっている。それだけはしてはならない。それは、いつもしてきたことだ。だから、今日の行為がいつもの商取引とは異なることを確認するためにも、それだけは、してはならない。分かっているのだ。分かっているのに僕の右手は吸い寄せられるように僕の財布に向かい、いつの間にか二人の福沢諭吉をつまみ出している。違う、そうじゃない。
だけど僕は僕自身の内側から聞こえる制止の声を振り切って、真秀の手に二万円を握らせた。真秀はいつもより丁寧にお札の皺を伸ばしながら、少し長い時間、そのお金を見ていた。それからいつもよりうやうやしく、福沢諭吉にキスをした。
真秀がすっかりお金をしまって、服を着始めてからも、僕はまだ少しぼうっとしていた。魂が肉体から少しはみ出して空中を浮遊しているような、そんな変な感じがした。真秀が服を着終えて、ハンドバッグさえ肩にかけて、もう帰ろうという段になっても、僕はまだ下着すら穿かずにベッドに腰掛けている状態だった。真秀はそんな僕の隣に立って、身をかがめて僕の頬にキスして、それから何も言わず部屋を出て行った。真秀の姿が見えなくなってからも、ずいぶん長い間、僕は呆然としていた。