スイヒラリナカニラミの伝説
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〈一九九七年六月二二日〉
すいかが割れた。
そう表現するより他にない。だってすいかは本当に、割られていたのだ。それは西瓜というより石榴の実に似ていたかもしれない。僕らが名づけた猫のすいかは、マンションの裏手に当たる物陰で、頭を叩き割られて、死んでいた。いや、頭だけじゃない。足の先から尻尾の先まで、原型をとどめないほどに叩き潰されていたのだ。
僕が最初に見たときには、それが猫であることすら理解し難かった。それくらい滅茶苦茶に叩き割られていた。周囲には血のついたブロックやすりこぎ棒なんかが無造作に投げ捨てられているし、現場にはないけれど包丁やペンチが使用された形跡も見られた。辛うじて原型をとどめていた毛皮のほんの一部が、どうにかそれが猫であったことを窺わせたのと、目の上の傷の化膿した部分が潰されずに残っていたので、それで僕はその赤黒い肉の塊が哀れなすいかであると理解したのだ。
どうして、こんなことが起こったのだ?とても悲しい気持ちになる。目の上に大きな傷のある、不細工な猫のすいか。彼は彼なりにこの窮屈な住宅街で、必死になって生きてきたはずなのだ。様々な困難や危機を切り抜け、あんな大きな傷まで負うことになりながら、それでもここまでどうにか生きてきたというのに、その彼の人生が、いや人ではないけれど、その生命が突如中断されてしまったのだ。外部からの、突然の暴力によって。
この猫を殺した誰かは、いったい何を考え、どんな気持ちで、こんなにも無残にすいかを叩き潰したのだろう?切り裂かれた腹が裏返しになって胃腸と骨がはみ出し、手足は肉球の一つ一つさえまっ平らになるくらい、徹底的に潰されている。哀れなすいかの小さな身体中に、でたらめに何本も虫ピンが刺さっていたけれど、別段解剖学の授業を行った風には見えなかった。何か僕には想像もつかない、途方もなく不吉な害意がここで発露されたことは間違いない。
ああ、だけど。僕は少しだけ思う。
彼にすいかなんて名前をつけたことが、いけなかったのではないか?だから近所の子供か誰かが、戯れにすいか割りを楽しんでしまったのではないのか?
このことを、すいかの名付け親に知らせてやらなければならない。だけど里佳に何と言ってやればよいのだろう。もしもし、里佳、すいかが割れたんだ。だけどそれでは、中から元気な男の赤ちゃんが生まれてきて、僕らはその子に西瓜太郎と名づけ、いずれ鬼退治に行かせようというような、そんな感じだ。
結局僕自身が、すいかの死をどのように受け止めたらいいのか分からなくて、それでどんな言葉で伝えたらいいかも分からずにいるのだ。だってすいかの突然の死はまったく不条理で、理不尽だ。どう言えば里佳に伝わるのだろう、僕が変わり果てたすいかの姿を見つけたときの、あのやり切れない気持ちが。
結局、どう言おうかと悩んでいる間に、里佳の方から電話がかかってきてしまった。それで僕は、心の準備ができないままに、電話を取るしかなかった。
「――もしもし?」
ぶうんというノイズ混じりで、里佳の声が電波に乗って送られてくる。僕は応じることができない。言葉が喉につかえて出てこない。咳き込みそうだ。里佳、里佳、聞いてくれ。すいかが死んだんだ、誰かに殺されたんだ。これ以上ないってくらいむごたらしいやり方で、全身を叩き潰されて、死んでしまったんだ。そんな言葉がもう胸の辺りでぐるぐる渦巻いていて、気分が悪くなる。嘔吐しそうになる。
「もしもし、あのね」
里佳はどうやら電話口の先に、僕がいることくらいは理解したらしい。当たり前だ、これは、携帯電話だ。僕がわざわざ手に取ってこの小さな通話ボタンを押さない限り、通じることはないのだ。だから里佳は僕が何か言うのか言わないのか、そんな様子をいちいち確認したりはせず、ただ、自分の用件だけを伝えてきた。
「結婚するの」
それを聞いて最初は、何か得体の知れない暗号か異国の言葉のように感じた。その言葉の意味するところをすっかり咀嚼し消化して、胃の腑に落とし込むまでには、しばらく時間を必要としたように思う。里佳もそれ以上何も言わず、ぶうん、というノイズ音だけが、静かに響いている。ほとんど空白と化した頭を抱えて、僕はどうにか、こんな言葉だけを返した。
「おめでとう」
それはどこまでも社交辞令でしかない。深く考えて発言したわけではない。だけど、他に言うべき言葉が何も思いつかなかったのだ。おめでとう。だけど、実際のところ目出度いのかどうか、僕には判断がつかない。里佳がどういう経緯でもって結婚することになったのか僕は聞いていない。おそらく例の彼氏と結婚するのだと思うし、本当におめでたなのだろうと推察する。おめでとう。そう言う他にないのだ。
「妊娠したの」里佳がようやく、続きを話し始めた。「そのこと話したら彼、ようやくプロポーズしてくれた。それにあたしも、ずっと待ってたんだって、自分でようやく分かった」
そうだ、それでいい。巣立ちのときが来たのだ。僕は自分にそう言い聞かせ、納得させようとするけれど、だけど子供の父親は実際のところ、誰なのだ?僕より料理もセックスも下手な件の彼氏なのだろう、と思う。とはいえ本当のところは僕には分からないのだし、子供の父親が僕である可能性は、ほとんどゼロに近いとはいえ、皆無ではないのだ。
「おめでとう」
もっと他に言うべきことがあるように思えた。例えば、マンションの裏手で死に絶えていた哀れなすいかのこと。だけど僕の口蓋を動かす筋肉は思うように力が伝わっていかず、変にこわばっていて、九官鳥みたいにおめでとう、を繰り返すことしかできない。
「ありがとう。じゃあね」
それだけ言って、電話は切れた。きっと里佳はもう僕に電話をかけてこないだろうと思った。それで僕はすいかの最期を里佳に伝える機会を失ったと分かったのだし、彼女が僕のために西瓜を持ってくることや、すいかのために煮干しを持ってくることは、この先永遠にないのだと覚った。
バスタブに十センチくらい水を張った。水を止めると蛇口の先から、一滴ぴちゃん、と落ちる。その音が妙に高らかに響き渡って、ああ、静かだ、と思った。バスルームはいつになく静まり返っていて、それで僕は、神聖な儀式に向かっているような気がした。
携帯電話を手に取り、メモリーを確認する。里佳との通話記録。何人かのガールフレンドの連絡先。ちょっとしたやり取りに使ったメールの送受信記録だって、几帳面に全部残っているのだ。こんなちっぽけな機械の中に、まったく、よく情報が詰め込まれているものだ。僕らの日常は、ポケットに入る程度のこの機械に乗っかっている。
メールの受信記録を開く。そこにはかつて僕と激しく争った、十の文字が刻まれているのだ。
スイヒラリナカニラミ
だけどこいつとも、もうお別れだ。結局このメッセージが何を意味しているのかは分からなかったけれど、構わない。もう二度と顔を合わせることもない。
この数ヶ月で蓄積された情報が、失われるときはほんの一瞬だ。とても簡単なことだ。
僕は携帯電話を、バスタブに放り込んだ。ばちばちん、という嫌な音がして、一瞬、火花も散ったように思う。それから携帯電話は白く冷たいバスタブの底で、もううんともすんとも言わなくなった。
これで、全部おしまい。明日この携帯を解約して、別のメーカーの新しいのを買おう。それで何もかもおしまいだ。僕はもう二度と里佳と連絡を取り合うことはない。他のガールフレンドたちもみんな、そうだ。そしてもう、差出人不明の不可解なメッセージに悩まされることもない。
僕は水底から携帯電話を引き上げる。それはもう、何の機能も果たさないただの金属の塊だった。液晶画面は灰色に沈黙している。電源キーをいくら押し続けても、電子音ひとつ鳴ることはない。すっかり役立たずになった携帯電話は、何か今までよりずっと、愛着が感じられるような気がした。
それから僕は、この携帯電話と同じくらい果敢なく失われた、すいかの命のことを考えた。軽く目を閉じ、宇宙の方を向いて、僕は哀れなすいかのために、少しだけ祈った。