スイヒラリナカニラミの伝説
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〈一九九五年三月二四日〉
彼女が僕の隣を歩いている。いつもと同じ光景だ。だけどいつもと決定的に異なるのは、僕は彼女の方に手を伸ばすことができないということ、僕らの間に穿たれた深い溝。ホテルを出てから僕と彼女は、一言も言葉を交わさずにいた。何を口にすればいいのか、何か言うことができるのか、分からなかった。悲しいような、情けないような、とにかく混乱していたのだ。
ともかく帰らなければならない。電車に乗ってアパートの自分の部屋に帰り、夕飯を食べて、寝る。そうすれば明日になる。いつもと変わらない明日。だけど明日僕は彼女と会ったとして、いつものように言葉を交わしたり、手を握ったりキスしたりできるのだろうか?――そんな先のことは、分からない。
夕暮れ時の陽光が、アスファルトに長い長い彼女の輪郭を描いている。影踏み遊びにはうってつけの時間帯だ。だけど今の僕は、彼女の影に触れることすら、どこか恐ろしく感じているのだ。何かが、決定的な齟齬をきたしている。僕と彼女とはこんなに近くにいるようでありながら、僅かに位相のずれた、別次元にいるような、そんな気さえするのだ。
駅へ向かう途中の道端で、彼女が突然立ち止まる。僕は不意に気づかず、三歩先に進んでしまってからようやく振り返った。彼女は軽く首を傾げながら微笑し、言う。
「ねえ、キスしてもいい?」
僕は曖昧に頷いた。彼女は爪先立ちをして、中学生みたいに、ちょこん、と可愛らしいキスをした。だけど彼女の唇は、死人のように冷たかった。
この時間の電車はあまり好きではない。金曜日の夕方五時過ぎ。人と人とがミルフィーユみたいに折り重なっていて、彼女の言うとおり、人間の尊厳に何か決定的な打撃を与えているように思えるからだ。
都心から少し外れた、小さな駅だ。両隣の駅には停車する快速列車が、この駅を路傍の小石のように無視していく。僕らは人影の少ないプラットホームで待ちながら、さっき快速列車を見送ったところだ。僕らが通過電車を見送るというより、電車が僕らを置き去りにして通り過ぎていったような、そんな気分がした。
彼女はホームの端っこの方に立っていた。すっかり傾いた夕日のせいで、彼女の顔は影になって、僕の方からは彼女の表情が読み取れない。間もなく一番線を特急列車が通過する旨のアナウンスが入った。同時に、彼女が背伸びをした。
「――子供の頃は、生物学者になりたかったの」
彼女が唐突に言う。僕は、言葉を返すことができない。
「どうして、諦めちゃったのかな。何か理由があったはずなんだけど、覚えてないの。だけど中学生くらいのときにはもう、自分は生物学者にはなれないんだって分かってて、普通に高校に行って大学に行って、普通に就職して銀行の窓口か何かやって、普通に結婚して子供産んでおばあちゃんになって――それ以外の選択肢なんてないんだ、って思い込んでた。
「もしも諦めずに生物学者を目指してたらどうなったかな、ってずっと考えてた。未練があったんだろうと思う。でもね、今はちょっと違うの。気づいたの。生物学者になったからって、きっと何も変わりはしないんだろう、って。もしも今も生物学者を目指していたとして、あたしのすることは砂漠でほんの小さな昆虫に涙することではなくて、きっと、能力もないのに権威だけある教授のセクハラに耐え続けたり、単位認定をタテにくだらない実験を夜通し手伝わされたり、そのうち奨学金の借り入れ額ばっかり膨れ上がってどうにもならなくなったり、結局そんなことでしかないのかなあ、って、少しずつ分かってきた。
「だからこの世界は、人をいっぱいに詰め込んで走る満員電車みたいなもので、振り落とされればおしまいだし、だからって無事乗りおおせたかと思えば、突如車両全体が固定されてしまったりする。どうしてこんなことになっちゃったのかな。もう、こんなにおかしな状態が、人間の尊厳が決定的に奪われている状態が、二百年も続いてるみたい。あなたは、どう思う?」
近くの踏切の音が風に乗って届く。特急列車のヘッドライトが近づいてくる。全身の血液がざわめいているのに、僕は何も声を発することができずにいた。彼女はホームのずいぶん端の方に立っている。特急列車がぷぁん、とクラクションを鳴らした。
「ねえ」彼女が声を張り上げる。「――って、信じる?」
「えぇ?」
僕は尋ね返す。クラクションのせいで肝心な部分が聞こえなかったのだ。だけど彼女は別に構わない、という風に、首を振った。特急列車がホームに滑り込んできた。
彼女の身体がふわり、と宙に浮いた、ように見えた。まるで彼女は、今駅を通過しようとしている特急列車に、キスをしようとしているようだった。彼女の肉体は黄色い点字ブロックを軽やかに越え、疾走する列車の真正面に投げ出された。それはとても長い時間であるように思えた。だけど列車の先端が彼女を捉えるとそれからはほんの一瞬で、ブレーキの擦り切れる音とともに車両は僕の目の前をあっという間に通り過ぎていき、ホームから半分くらい先にはみ出したところで、ようやく止まった。僕は右手を彼女の方に伸ばしたまま、呆然と立ち尽くしていた。
何もかもが凍りついたように沈黙していた。僕自身の呼吸や鼓動も、止まっているように感じられた。だけど一歩踏み出し、ホームから線路を見下ろすと、そこには鮮やかな桃色をした彼女の腸がだらん、と流れていた。僕の背後で中年の女性が悲鳴を上げた。それから、ようやく辺りが騒然とし始めた。
ホームの上、僕の足元に、彼女の指があった。彼女の右手の小指だ。さっきまで僕のペニスを握っていた、彼女の右手だ。これまで何百回と握り締めたことのある、あの美しい彼女の手だ。真っ白だったはずの彼女の指は文字どおり血の色を失い、青ざめていた。僕は吸い寄せられるようにしゃがみこみ、彼女の小指を拾い上げた。それは煙草みたいに軽くて、その瞬間に僕はようやく、大変なことが起こったと気づいたのだ。――僕は決定的な言葉を、彼女が最期に僕に伝えようとした言葉の肝心な部分を、永遠に聞きそびれてしまったのだ。
ねえ、信じられる?というのが彼女の口癖だった。およそこの世界の構造に関するあらゆる部分に彼女は疑問を抱いていたようで、何かにつけ僕に尋ねるのだ。ねえ、信じられる?だけど彼女は最期に、僕に問いかけたのだ、ねえ、××って信じる?――信じられる?じゃなくて信じる?だ。だけど何を?彼女は何かを信じていたのか、あるいはそれも信じられなくなったのか、そしてそれは何だったのか。もう遅い。全部聞きそびれて、あの車輪の下でずたずたに引き裂かれてしまったのだ。
ねえ、君が最期に口にしたのは、いったい何だったんだい。僕は机の上の彼女に問いかける。まったく、これこそ最高に信じられないのだ。僕の机の上で鉛筆や消しゴムと同化している、ほんの数センチの切れっ端が、彼女だなんて。線路に飛び降りて散り散りに消えうせてしまった彼女の中で、この彼女の小指だけが、元通りのポジションに、僕の隣にとどまっていたのだ。僕が手を伸ばして、いつもと同じように触れることができた彼女の部分は、この右手の小指だけなのだ。
だから僕は、どうしても彼女を連れ帰らなければならないと思った。僕は彼女の小指を、無造作にポケットに放り込んで、そのまま帰ってきたのだ。警察の事情聴取はきわめて事務的だったし、鉄道会社の職員の対応も手馴れたものだった。こんなことは日常茶飯事なのだろう、彼らにとっては。そして僕は、ゴミ袋みたいなものに大雑把に放り込まれて片付けられていく彼女を見送りながら、小指は、この右手の小指は、僕のものとして持ち帰った。
不思議なことに涙は出なかったし、それどころか、彼女の死から数時間経過した今でも、まるで悲しい気持ちが湧き上がってこないのだ。僕の魂はまるで、一品の料理も盛られることのない豪奢な白磁の皿みたいに、空虚だった。
彼女の指はもうすっかりどす黒く変色していた。これから彼女は腐敗していくのだろう。それは見たくない、と思った。あの美しすぎる、僕のペニスを包んでいた彼女の右手が、腐敗し異臭を放ち、蛆虫に取り囲まれる姿は、絶対に見てはならないと思った。
僕はナイフで彼女の指から肉をむしり取り始めた。そうしなければ、彼女が腐ってしまうと思ったからだ。皮膚や爪は思いのほか強固にその形を守っていて、肉を剥ぎ取っていくのには相当な労力と時間が必要だった。そんなことをしている間にだんだん胸の辺りが締め上げられるように痛くなってきて、僕は激しく咳き込んだ。咳の拍子に涙がぽろんと飛び出してきて、そうしたら今度は涙が止まらなくなった。
涙と痰にまみれてうずくまりながら、彼女の指から肉を剥がし続ける僕の目の前に、ようやく骨が姿を現した。彼女の骨は真っ白で、とても美しかった。その瞬間僕は泣いた。血まみれの手で顔を覆い、机に突っ伏して、わんわんと大きな声を立てて泣いた。