スイヒラリナカニラミの伝説
(28/32)
〈一九九九年七月三一日〉
土曜日だったから少し朝寝坊した。シャワーを浴びてから、トーストとオムレツそれにレタスばっかりのサラダで、朝食には遅く昼食には早い食事を取った。それから洗濯物を干し、部屋に掃除機をかけて、音楽を聞きながら読みかけの本を開き、五ページで気が散って挫折した。何か、変にそわそわしていた。
机の上には彼女がいる。つまみ上げて揺すると、からから、と透き通った音が響いた。マーマレードみたいに瓶の中で待っている、彼女の美しい右手の骨。まるで何年も前からすべてを見透かしているみたいだ。考えてみれば当たり前だ。僕らの営為はもう二百年の間進歩することがなくて、同じことばかり繰り返している。
からから、からから。ああ、そうさ、君の言うとおりだ。すべての革命は自由の創設に失敗して敗北した。そして僕らはガラス瓶に閉じ込められてもがいているんだ。時折全部叩き壊して自由を得ようと試みる者がいるけれど、結局解放の物語に手足を絡め取られて、すぐさま当初以上の不自由に陥る。この世界は途方もなく堅固なシステムとして出来上がっていて、それを打ち砕くのはほとんど不可能だ。そして君は自らの肉体の方を打ち砕いてしまい、今やほんの断片になって、僕の手元にとどまっている。そこで君は、何を得たのだ?それは何がしかの自由の創設に寄与するものであったのか?
まだ夕方にもなっていないけれど、ビールでも飲もうかと思い、冷蔵庫を開けた。だけどすぐに気が変わって冷蔵庫の扉を閉めた。小さく背伸びをして、それから、テーブルに置かれた携帯電話に目をやった。あれから丸二日、真秀からの電話はまだ、ない。
夜になったから、少し冷房を切ることにした。窓を開けると、幽霊も大喜びしそうな生温かい風に、首筋を撫でられる。
あと五時間足らずで、七月が終わってしまう。世界の滅亡が約束された七月。空から恐怖の大王が降臨する気配はなかった。どこかで道草でも食っているのかもしれない。真秀はこの空を、この空気を、どこで見ているのだろうか?彼女もまた僕と同じように、落ち着かないような、憂鬱なような、変な気分で時間が過ぎるのを待っているのだろうか?
残念ながらハンバーガーを買いに行くのを忘れた。精子数を減少させるというハンバーガー。それが本当なら、毎日だって食べてやろう。だけど僕らが口にしているものの大半は、何かしら体に悪影響を与えているのだろうし、今さらハンバーガーの危険性を騒ぎ立てたところで手遅れのような気がする。真秀からの連絡はない。八時になったらビールを飲もう。
だけど僕の意図を見透かしたように、七時五十六分に電話が鳴る。真秀からの電話に、僕はびくり、と姿勢を正す。そうだ、待ちわびていたのだ。それにしても僕は何をそんなにびくびくしているのだ?真秀と電話して、話す。何も特別なことはない。緊張することじゃないじゃないか。
それでも携帯電話を手に取り、通話ボタンを押す僕の指は震えていた。「もしもし?」
「――もしもし?」
ぶうん。電波状態が良くないらしく、通話はいつになくノイジーだ。羽虫みたいな音がする。真秀の声は、呼吸の音は、途切れがちになって肝心のディテールが伝わってこない。僕は一昨日と同じように、不可解な不安に囚われる。この電話の向こうにいるのは、本当に真秀だろうか?真秀はどこにいて、何をしているのか?
「ねえ、あたしが今どこにいるか、分かる?」
僕の不安を見透かしたように、真秀が尋ねてきた。どこにいるか、だって。そんなことは本当に、まるで見当もつかないのだ。だって僕は今自分が電話しているのが、真秀であるという確証すら持てずにいるのだ。
「――分からないな」
そう答えるより他にない。
「高いところにいるの。すごく高いところ。風が、気持ちいいの」
真秀の言葉は漠然としていた。
「いろんなものが見える。ここから見ると、みんな小さな光の点で、何だかどれも全部おんなじに見えるの。だけどそれって考えてみれば、すごく当たり前のことなんだよね」
「――真秀?」
「なんかね、すごく退屈だったし、何もかもみんな馬鹿にしてたの。だからずっとだらだらと生きてきた感じだったし、自分でも生きてるんだか死んでるんだかよく分かんない、幽霊になったみたいな気分だった。――でもね」
「真秀、いったいどこに――」
時折途切れそうになる真秀の声を聞き漏らさないために、僕は受話器を当てていない方の耳をふさいだ。この様子では真秀には、僕の声はろくに聞こえていないのかもしれない。
「どうしてかな、今ここに立ったら、何か吹っ切れたような、すっきりしたような気分になってきたの。何て言ったらいいのかな、全身の細胞がいっぺんに目を覚ましたみたいな、肌がぴりぴりして、なんかすごく――ああ、あたし生きてるんだって思った。こんな風に感じたのって、生まれて初めてかもしれない」
「ねえ、真秀、今どこにいるんだ。もう教えてくれたっていいだろう」
それは何か決定的なことであるような気がしたから、僕は必死で尋ねるのだ。真秀は、どこにいるのだ?それを知りえないことが、僕を途方もなく不安にさせている。いったい真秀は、今どこで何をしながら、僕に話しかけてきているのだろう。
「こんなこと、今だから言えるんだけど、あなたのこともずっと、何か馬鹿にしてた。こんなことしてお金払って、この人は何が楽しいんだろうって。それって多分お互いさまなんだし、あたしだって馬鹿なんだな、って思ってた。――それなのに何か、ほんの一日か二日前のことだけど、何かなつかしいみたいな、変な気分になってきたの。考えてみれば、あなたと一緒にいるのって、案外楽しかったような気がする。少なくとも、そんなに退屈じゃなかった」
「もしもし、もしもし?聞こえてる?今どこにいるんだ?」
僕の声は真秀に届いていないんじゃないだろうか。僕は大声で怒鳴りつける。だけど僕が何を言っても反応はなく、真秀は一方的に話し続ける。
「せっかくだから、一応言っておくね。――ありがとう」
「真秀、真秀?聞こえてるのか?返事してくれ」
ありがとう、だって?一体真秀は何を言い出すんだ?僕の声は、真秀に聞こえていないのか?何がどうなっているんだ?真秀は、どこにいるんだ?そこに、いるのか?
「ねえ、本当なら今日までに、世界が滅亡していたはずなのよ。それなのにここから見下ろす世界は、いつもと何も変わらない。――ううん、本当は分かってた。世界が滅亡なんてするはずがないの。この先もずっと何も変わりはしないんだって、分かってたから――分かってたから逆に、ちょっと期待してたのかもしれない。いっそ、世界が滅亡でもしてくれればいいのに、ってね」
「真秀、ねえ、どこにいるんだ?真秀、真秀?」
「長くなっちゃった。じゃあ、今から、死ぬね――」
「真秀、真秀?」
ツー、ツー、と無機質な電子音が響く。電話は切られていた。今から、死ぬって?僕をからかって楽しんでいるのか?僕は携帯電話を握りしめたまま、しばらく立ち尽くしていた。唇が震えていた。
何のことはない。待っていればそのうち、電話がかかってくるはずだ。嘘に決まってるじゃない、ちょっとは心配した?そう言って笑うに決まってるんだ。真秀、どこにいるんだ?いい加減にしてくれないか。どうして電話をかけ直してこない?悪い冗談だ。
からから、からからと彼女が笑う。同じことの繰り返しだ。違う、違う。だって僕は今度は失敗しなかった。とにかくやり遂げたじゃないか。失敗しなかった?だけど実際のところ何が失敗で何が成功なんだ?そして僕は肝心なことはいつも知ることができない。真秀は、どこにいる?いや、真秀は、いるのか?
我慢の限界だ。僕は真秀にリダイヤルする。待っていた時間は途方もなく長く感じられたけれど、実際のところは五分程度だったかもしれない。僕は電話をかける。だけど応じたのは真秀の声ではなくて、機械的なメッセージだ。お客様のおかけになった電話番号は、電源が切られているか、電波の届かないところにいます。電波の届かないところ、それって、どこ?届かないのは、電波だけなのか?
滅亡の前日に自殺する、確かに真秀はそう言った。だけど結局世界が滅亡するはずもないんだし、それでも真秀は今から死ぬって。生きてるんだなって、感じたばかりじゃないのか?どうして?
箱の中の猫みたいに、僕には真秀の生死すら分からない。真秀がいったいどこで何がどうなっているのか、知る手立ては何もないのだ。本当に、それだけのことだ。どうしようもないのだ。お手上げだ。僕は携帯電話を放り捨てた。携帯はベッドの上でぽん、と軽やかに弾んだ。