スイヒラリナカニラミの伝説
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〈一九八九年七月三一日〉


 時計を見ると午前一時だった。僕は蛇口をひねって、水を一杯コップに汲んだ。小さなコップの内側で水はしゅうん、と泡立ち、それからすぐ静かになった。キッチンの窓から入り込む微かな光は月明かりだろうか、それとも街灯の光だろうか。ガラスのコップとその内側の水は青ざめたように透明で、きん、と冷たい光を放っている。
 僕は流しの下から包丁を取り出す。ステンレスの刃はガラスよりもっと冷たい銀色だった。僕の指先はとても火照っていたから、包丁の刃に触れると、ひんやりと気持ちいい。コップの水を口に含んで、ゆっくり時間をかけて飲み込んだ。空虚な胃の腑の内側から、清浄な水が染み渡っていく感じがした。大丈夫だ。問題ない。
 大きく深呼吸をした。どうしても緊張しているのが、自分で分かった。心臓が肋骨の内側から飛び出そうと暴れている。だけど今日、やり遂げなければならない。僕自身の、人間としての尊厳を守るために。包丁の刃はどうしようもなくクールだ。だからあとは僕の脳細胞をクールに保つことが肝要だ。そうすれば、きっとすぐに終わる。
 あれから二週間余り、僕はずいぶん色々なことを考えていた。とても混乱していたけれど、とにかく突破口を探していた。どうしたらいいのだろうと悩んでいた。様々な選択肢、様々な可能性を天秤にかけ、そうしていつもたどり着く結論はひとつだ。だから僕は決断する。そして今夜、実行する。
 ――母親を殺すことに決めた。


 日付が変わる頃に泥酔して帰宅した母は、化粧も落とさず服も着たまま、朝から敷きっぱなしの布団に寝転がっていた。化粧と香水とアルコールの混ざった臭いに、窒息しそうになる。醜い、と僕は思った。僕は今包丁を手にして母を殺そうとしているけれど、彼女は飼い馴らされた家畜みたいに眠りこけている。どうだろう、この無防備さは。こんな女に、僕は襲われたのだ。
 仰向けに寝そべっている彼女の、どこに包丁を突き立てたら確実に殺せるだろうかと、僕は逡巡した。まず僕は胸を見た。ここには心臓がある。心臓を切り裂かれれば、間違いなく死に至る。だけどブラウスと下着と、それから脂肪の塊である乳房と肋骨を突破して、心臓に到達することが可能だろうか?それはとても困難であるように思えた。
 高いびきを上げている彼女の顎の下には、喉笛が曝されている。僕はサバンナの肉食獣の気持ちでそれを見下ろした。まさしく、息の根を止めるに相応しい箇所だ。獲物の喉元に食らいつき、噛み殺す。だけどライオンだって獲物を窒息死させるのであって、僕の手にした刃物はその種のハンティングには向いていないように思えた。
 それでは、どこに包丁を刺し込めばよいのだ?僕は彼女の怠惰な肉体を、上から下まで眺めていく。下腹部でふと、視線が止まった。ここには多くの臓器が収まっているのだ。肝臓、腎臓、小腸に膵臓、脾臓。だけどそれらを刺し貫くことが、彼女にとって決定的な打撃になりえるのか?下品に投げ出された彼女の脚。ストッキングが伝線していた。タイトスカートはすっかりめくれ上がって、これも下品な黒色のショーツがさらけ出されていた。
 黒色のショーツ。黒色のショーツ!この薄っぺらい下品な布地の向こうに、あの忌まわしいヴァギナが存在するのだ。そうだ、この奥には子宮があって、卵巣がある。だけどこうして高い位置から見下ろすと、なんてちっぽけなのだろう。本当に僕は、こんな小さな下腹に収められた、小さな子宮で発生したのか?そして、このヴァギナを通過して、この世界に姿を現したのか?かつて誕生の際に通過した経路を、十五年後の僕は逆行して、そして彼女に飲み込まれたのだ。脱出しなければならない。解放されなければならない。
 唇が震えた。脇腹を汗が滑った。みるみる冷静さを欠いていくのが、自分でもよく分かる。もはやどこを刺せば殺せるか、なんて考えている余裕はなかった。そんなものより、彼女と彼女のヴァギナに対する憎悪が、僕の身体のあらゆる場所で沸騰している。そうだ、このヴァギナこそが、僕を支配し所有しようとする、邪悪な欲望の根源なのだ。これを絶たないことには、僕が自由を獲得することはないのだ。
 自分がいったい何をしているのか、自覚はなかった。僕は母のパンティストッキングを引き裂き、ショーツを引きずり下ろしていた。その奥にある、もっとも憎むべきヴァギナと対峙するために。むき出しになった彼女の股間に顔を近づけ、僕は――息が止まる。
 だけど実際ヴァギナを見るのは初めての経験なのだ、小学生の頃に見た同級生の無毛のヴァギナを除いては。それは僕が想像していたよりさらに、不気味で不可解な代物だった。黒くて短い陰毛が密集している様は、まるで海藻みたいだ。恥丘から肛門まで途切れることなく陰毛が生えていて、その中に埋もれるようにして、性器がある。赤黒い肉がはみ出し波打っている。それは海洋の軟体生物か、そうでなければ異星の生命体のように思えた。こんなにグロテスクなものだとは思わなかった。だけど僕はここから生まれ出て、そしてここに飲み込まれたのだ!
 吐き気がする。目まいがする。いつの間にか包丁は僕の手から逃げ出しており、布団の上で惰眠を貪っているのだった。ああ、だめだ、と僕は思う。睾丸が縮み上がって身体の内側に逃げ込んでくるような、そんな感触があった。もうすっかり僕の肉体は萎縮していて、包丁を握り直し振り下ろす力は、どこにも残っていなかった。
 僕には、彼女を殺すことができないのだ――。
 それは絶望的な、絶対的な敗北を覚った瞬間だった。僕には彼女と戦う力はないのだ。生まれたときから僕はこの、怪物のようなヴァギナに支配され、呪縛されているのだ。彼女を殺すことは僕にはできない。僕はただ彼女のヴァギナに飲み込まれたまま、誰かが僕を解放してくれるのを待ち続けるしかないのだ。
 すべてを諦めると、ようやく僕の身体が動くようになった。僕は包丁を拾い上げ、キッチンに片付けた。それから母のショーツを引き上げて、自分の布団に潜り、固く目を閉じてマスターベーションを始めた。