スイヒラリナカニラミの伝説
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〈一九九七年六月二八日〉
テレビのニュースが、凶悪事件の犯人逮捕に沸き返っているその頃、僕は本や食器や衣類をまとめて段ボールに詰め込んでいた。ちょうどいい区切り目だ、ということだ。これで万事解決というわけではないけれど、とにかく精算することは重要なのだ。
今のマンションから駅六つほど郊外に離れたところに、手頃な部屋を見つけた。今より手狭になるけれど、築年数が若いし、近くにコンビニとパン屋と理容室がある。七月から早速入居できるということで、僕は不動産屋の窓口で即決して、敷金礼金と当初の家賃まで支払ってきたのだ。
来週には引っ越す。市が変わるから電話番号も変わるし、携帯も別の会社の新しいものにした。これまでの僕の生活との接点は、これで何もなくなる。心機一転、なるべく多くのものを処分してしまって、身軽になって引っ越そう。わずかばかり残っていた貯金は、今回の引っ越しでほとんど吹っ飛んでしまうから、今度こそ本腰を入れて仕事を探さなければいけない。とりあえずは、アルバイトでも構わない。何か始めよう。きっと始められる。
本もCDも段ボールの奥底深く封印してしまったから、テレビは今の僕にとって唯一の娯楽だった。だけどどのチャンネルを回しても、ついさっき凶悪事件の犯人逮捕の記者会見があったとかで、同じ画面が別アングルで繰り返し写されるだけだ。そんなことは、もうどうでもいいのだ。だってそれは、終わったことだ。
里佳が僕の部屋に置きっぱなしにしていたマグカップ……捨てる。別のガールフレンドから去年のクリスマスに貰ったタイピン……捨てる。また別のガールフレンドが、勝手に僕の洋服ダンスに紛れ込ませていた着替え一式……触れたくもない。ゴミ袋にぎゅうぎゅう押し込む。十二個入りのコンドームの箱、残り七個……全部捨てる。里佳と僕で折半して買った、まだ新しいコーヒーメーカー……少しだけ逡巡したけど、やっぱり捨てる。
僕の部屋にはたくさんの女の子たちが、入れ替わり立ち替わり呪いでもかけていたようで、それが証拠に放っておくと僕を呪縛しそうな物品が、部屋の至る所から出てくるのだった。僕はそれらを一つ一つ確認しては、燃えるゴミと燃えないゴミに分別していく。
カーテンとカーペットも、まだ十分使える代物だったけれど、捨ててしまうことにした。新しいカーテンとカーペットを買いたかったのだ。これまでとは、違う色合いの部屋に住みたい。これから僕が新しく住む部屋に、僕が選んだ色を取り入れたい。
冷蔵庫や洗濯機は仕方がない。捨てたって買い換える予算がないのだから、持っていくしかない。ベッドだってそうだ。だけどせめてもの抵抗として、シーツや枕カバーは全部捨てて、新しいものに買い換えようと思う。
押し入れの奥から、古くさいがらくたばっかり入った箱を発見した。開けるとまず、中学生の頃にクラスメイトから貰ったラブレターが出てきた。自分の物持ちの良さに感心しながら、燃えるゴミの袋に放り込む。小学六年生の音楽の教科書。何だってこんなものが残っているのだ?開いてみると、ショパンの肖像画に鼻毛と顎髭が書き足してあった。小学六年にもなって、何と幼稚なことをしていたものか。苦笑しつつ、燃えるゴミに入れた。ああ、そうだ、僕は当時の音楽の教師が大嫌いで、それでこんなことをしていたのだ。
中学二年の体育祭で使ったハチマキ。女の子が好きな男の子のハチマキを貰う風習があって、それでクラスの女の子からくださいって言われたんだけど、自分の汗や何かが染みついたハチマキを他の誰かが持つことが生理的に気にくわなかったから、失くしたって嘘をついたのだ。結果、以来十年近くも、こうして仕舞われていた。燃えるゴミ。
高校の修学旅行の写真。仲の良かった男女五、六人と一緒に写っている。彼らの誰とも、もう連絡を取っていない。みんな今頃どこで何をしているのだろうか?優秀な連中だったから、官僚や弁護士や学者の卵として、階段を駆け上っている最中かもしれない。燃えるゴミ。
まったく、捨てるものが多すぎる。燃えるゴミの日は明後日だから、それまで玄関先に積んでおこう。とりあえず燃えるゴミの袋を二つ両手にぶら下げ、僕は立ち上がった。その拍子にうっかりつまづき、がらくたの入った箱をひっくり返してしまった。床一面に紙束やら何やらが転がる。やれやれ、大変なことになりそうだ。
――その時を見透かしたように、ぴるるる、ぴるるる、と電子音が鳴った。携帯電話だ。新しく買った携帯電話。だけど僕は部屋のどこかに携帯電話を置きっぱなしにしていたようで、どこにあるのか分からない。どこかに埋もれてしまっているかもしれない。それは困ったことだ。だけど、僕の携帯電話は新しく買い換えたばかりで、まだ誰にも番号やメールアドレスを教えていない。その携帯電話に、誰かが連絡してくるなんてことが、あるのだろうか?間違い電話ではないだろうか?
僕は音のした方を頼りに、がらくたの山をひっくり返した。幸いにして携帯電話は、ノートと昆虫採集の間に隠れていたところを、すぐに見つけられた。僕は携帯電話を手に取る。そのとき、僕の指の端ががらくたの中のガラス瓶に引っかかって、瓶は床の上を転がっていった。
からからからから……。
風鈴のような澄んだ音がした、その瞬間、僕は嘔吐しそうになった。ああ、なんてことだ、彼女じゃないか!小さなガラス瓶の奥に閉じこめられた、彼女の断片。右手の小指、彼女の右手はとても美しくて、僕のペニスを握ったのだ。美しい彼女、生物学者になれなかった彼女は、二万円で見知らぬ男に脚を開き、その金を握りしめて、いや、僕のペニスを握りしめて、滑り込んできた特急列車にまるでキスでもするみたいに、引き裂かれて、散り散りの断片になって、そして彼女の破片が僕の手の中に残った。ねえ、××って信じる?永遠に聞き取ることのできない、言葉のほんの一節、それはまさにコトのハ、言の葉であり事の端なのだ。彼女はこんなところにいた。僕の部屋の押し入れの、一番奥の、一番暗いところ。そこからまるで亡霊みたいに僕の前に立ち現れて、からから、からからと儚い音を、ほとんど透き通るみたいに、ああそうだ、彼女の手はなんと白かったことか。だけど今僕の手元に残されている彼女の手はどちらかと言えば黄ばんだような色で、手と手が、ああ僕らは何度も手を握り合い、そしてナイフで彼女の肉をすっかりそぎ落とすと、
だけど僕のナイフは本当にすっかり役立たずだったのだ、あの肝心なときに!ああもう僕の脳髄は溢れ返る記憶と言葉の洪水に飲み込まれている。だけど本当に大事な部分はいつだって破片になって僕の手をすり抜けていってしまう。ねえ、××って信じる?××って××って××って信じる?信じる?信じる?って何を?パズルのピースが一つ足りない、それはとても重要なピースなのだけれど、ようやく手に入れた彼女の断片をいくつ集めても、もう彼女を元には戻せない。ハンプティ・ダンプティ転がり落ちた。僕はこぼれたミルクに涙をこぼす暇すら与えられずに、だけど線路の上にどろりとこぼれていたのは、鮮やかな桃色の彼女の腸だった。鮮やかな桃色。押し広げた彼女のヴァギナの奥底は内臓と同じ色合いで、その奥には子宮があって卵巣があるのだけど、すべては特急列車の車輪に引き裂かれて粉々に砕け散ってしまい、彼女の尊厳はどこへいったのだ?そして彼女の死は微かにダイヤを乱しただけで、満員電車はわき目も振らず疾走する。素晴らしく堅固で揺るぎないシステム。金属の箱の中で無数の物語は無差別に固定され、車両の外側へと飛び出した彼女の末路は、
ああ、それでも、ガラス瓶の中で時を止めた彼女の右手はどうしてこんなに美しいのだろう。彼女は、逃げおおせたのか?だけど僕は逃げられないのだ、だって記憶はほんの断片を通じて亡霊のように生起し、すいかを叩き割った明白な害意がむしろ彼を亡霊に変え、忘却を拒否するのだ。僕の手の中にある彼女の美しすぎる断片が、連鎖的に想起させるものこそ、解放の物語であり、これこそ僕らを縛る物語であったのだ。解放の物語からは解放されない。そして僕らの物語は毒ガスで満たされた列車かトラックみたいに虐殺され、そうしてもう二百年も自由の設立に失敗している。
――僕はようやく携帯電話の画面に視線を落とした。新しく買い換えた携帯電話。まっさらな情報の集積基地。その液晶画面に初めて表示された文字は「メール着信あり」であり、僕はとても不吉な予感、振り払ったはずの亡霊にまとわりつかれている予感に囚われ、おそるおそるメールを受信した。果たして、彼と再会した。
スイヒラリナカニラミ
僕は笑った。世界中の砂漠化を一手に引き受けたような、乾いた笑いだった。横隔膜がひきつったみたいに、呼吸を圧迫する苦しい笑いが続いた。しばらくの間、僕は自分が涙と鼻水にまみれた無様な顔をしていることにも気づかなかった。顔面をぐしゃぐしゃにして、僕は気がふれたような笑い声を漏らし続けながら、ずっと泣いていた。