涼風 輝 様 お手紙拝見しました。まずはご成婚の程、お祝い申し上げます。 とは云っても、はやご結婚から半年、前回の新婚旅行のご報告や前々回の「男性であることの不自由」についてのやりとりからも数ヶ月の時が流れており、そのぶん涼風様の心境にもいくばくかの変化があったのではないかとお察しします。それも一度といわず二度三度……というのは馬頭の勝手な想像ですが。 もう充分にバレてしまっているかも知れませんが、いわゆる《結婚》なる制度に対して懐疑的な馬頭が、それでも涼風様に対してなにがしか羨むところがあるとすれば、そのような《結婚》の、かつてない濃度で両者が折衝することによって生じる変化―戦争がもたらす技術革新のような―思索するうえでの刺激に他なりません。思えば、日本の文学者は夫婦生活からいかに多くのインスピレーションを得てきたことでしょう。(※註1)もしかするとこの指摘に、「日本の」という限定は必要ないのかも知れませんが。 前回、涼風様は《思想の外部性》すなわち「一個の人間が物事を考えるときに、外的な要因から受ける刺激をどうしても排除できない」ことについて語っておられましたが、この指摘を逆説的に絡め取るならば、「環境の著しい変化は、思考を活性化させる効用がある」ということも云えるのではないでしょうか。 レヴィナスを引くまでもなく、旅と遍歴が我々にエピステーメーをもたらすというのは幻想にすぎない、せいぜい今までのドクサに新たなドクサがひとつ加わるだけだ、という見方もありますが(実際、経験者の言葉にこそ真理がある、などという単純な図式をいまさら信じられるものではありません)、それでも従来のドクサと、新たに獲得したドクサ(?)とはどこが違うのかを、仔細に検討してみる価値はあるでしょう。 人は絶えずさまざまな変化に晒されてゆく存在ですが、そのなかで、おそらく適応ということもあって、ある真理(と思われていたもの)を捨てて別の真理(と思われるもの)を掴み取る、という変化のなかにこそ、あるいはエピステーメーの片鱗が見え隠れするのかも知れません。真理とは燐光のごとく垣間見えるものであり、掴まえるものにあらず、といったところでしょうか。あらゆる構築は崩壊しなければならない。崩壊することによってはじめて真の美をあらわし、永遠として復活するのだ……というのはアルベルト・シュペーアの建築論を誇張気味に言い替えたものですが、なるほど思索するということは、かつての自らの思索が崩壊し、粉々に折り重なった瓦礫の上に立ってなお遠い天を仰ぐことだ、と言いうるのかも知れません。 それにしても、既にカミングアウトされたこととはいえ、あまりに「結婚、結婚」とこちらからネタを振るのは涼風様にしてみれば少々ムズガユイのではないか、という気もしますので、お二人の馴れ初めから今日に至るまでのお話は、いずれお会いしたときにたっぷり聞かせていただくことにして、このあたりで本題を先取りするはめとなった前置きをいったん閉じておきます(といいつつ、この後にも《結婚》についての話が出てくるのですが……)。 さて、今回の涼風様からの問いは比較的はっきりしています。すなわち《思想の外部性》の問題―それについて涼風様は《ポジション》という概念を提起されております。 そして、ナンシーとデリダとの間に起こった議論、サッカーやラグビーの《ポジション》について、そして遂に(!)TRPGの話が登場いたしました。 さしあたっては、次のことを指摘したいと思います。我々の世代は、ポジション(これを「ペルソナ」と云い替えるのはさすがにちょっとアレですが)を意図的に使い分けているところが、先行の世代とは大きく違うということです。涼風様が、「われわれの世代にとって、RPGという文化が及ぼした影響というのは、実に注目に値するものだと思いませんか?」と仰っていることは、さまざまなレヴェルでの解釈が可能ですが、その一つとして、我々は他者と向かい合うときに必然的にポジションを持つことについて、きわめて洗練された訓練を経てきている、ということではないでしょうか。 もちろん先行の世代もTPOによって自らを演じ分けるくらいのことはやってのけているし、そういう面ではむしろ中年は面の皮が厚く、彼らこそ自由に《ポジション》を使い分けていると云うべきなのかも知れません。逆に、我々の世代はそういう点ではたいへん不器用なところがあって、どうも本音が表情やしぐさに出てしまうのを抑えることが出来ません。 にもかかわらず、我々は彼らよりもポジションの変化に対し感覚が研ぎ澄まされていると感じるのは、結局のところ、我々がRPGやアニメ・ゲームなどにおいて培った、現実逃避的なポジション―ああやはり私はポジションを「ペルソナ」みたいな意味で使っていますね。これは涼風様の意図するところと少しずれているのかもしれませんが―を持ち得ている、ということにあるのではないでしょうか。 現実逃避的なポジションというのは、あのやたらと都会的なストレスが解消された世界、ファンタジーの世界、いわばオタク的妄想の世界のことを指すのですが、これについてはJ・R・R・トールキンが《二義的世界》と呼んだもの、すなわち「我々が持つべき、現実とは別の、自己充足的で独自の調和を持ったもう一つの世界」とほぼ同義と言えるでしょう。 かの十九世紀生まれの言語学者は、この《二義的世界》を芸術における究極の創造だとまで称揚していますが、思えば我々の住まう現実を《一義的世界》、それに対する精神の避難所的なものを《二義的世界》と呼ぶありようは、オタク用語(?)であるところの《三次元》と《二次元》、あるいは《メインカルチャー》と《サブカル》にきわめて類似しているではありませんか。 《一義的世界》と《二義的世界》、《三次元》と《二次元》、《メインカルチャー》と《サブカル》は、その用法においていずれも後者にアクセントが置かれています。トールキンは《一義的世界》という言葉を多用しなかったし、我々も《三次元》だの《メインカルチャー》だのといった言葉を、それ自体として使うことは稀です。「メインカルチャーは」といった云い廻しを私はついぞ聞いたことがなく、逆に「サブカルは」という云い廻しはずいぶんよく耳にします。つまり現実や「正当な」文化というものは、ここでは語る以前の、自明のものとして定義されているのです。 これら現実‐空想の二元論において、つねに後者が重要視されていることに留意するならば、我々の世代が現実から切り離すことによって獲得した概念が、基本的には現実に拮抗しうるもの、あるいは少なくとも対立的なものという期待を負っていることが了解されるでしょう。あまり「世代、世代」と言いつのるのもなんですが、先行する世代にとって、現実‐空想といった二元論的世界は存在しなかった。もちろん理想や空想や妄想は抱いたけれども、それはとうてい現実に拮抗しうるもの、対立的なものとは見なされていなかったのではないでしょうか。 ちなみに、前回の馬頭の手紙で「萌え」のことを「燃え」と誤記してしまった箇所がありましたが、「萌え」と通常の恋愛とどこが違うのかといえば、「萌え」とは二次元に属する感情であると同時に、時おり三次元に対して挑戦的な面があるように思われ、そこが馬頭にとっては興味深いと思われるところです。萌え者たちには是非とも「ほっといてくれよ」的態度ではなく、「三次元より二次元のほうがいいに決まってるじゃないか!」くらいのカウンターディメンショナルな(?)態度で臨んでほしいと思います。 このあたりで、冒頭でもちらりと触れた、なぜ馬頭が《結婚》という制度に対し懐疑的であるかについて、少し自己分析的に語ってみましょう。 ここまで繰り広げた理屈で云えば、人は多かれ少なかれ現実逃避的なもう一人の自己に支えられることによって現実生活を支えているのだ言えるでしょう。強制収容所のなかで、囚人たちがとあるゲーム―この部屋のなかに女の子が一人いると想定しよう。彼女が側にいるときには卑猥な話は慎み、誰かが着替えをするときには彼女との間をカーテンで仕切ろうではないか―を行うことによって絶望による死を免れた、というエピソードもあります(残念ながらこれは事実ではなく、本邦未訳の短篇小説ですが)。 馬頭はといえば間違いなく、そのような度合いが強いほうだと思われるわけですが、たとえばその女の子をナチに引き渡せと要求されても断固として拒否することは、つまり生命維持よりそれを優先することはおそらく不可能だとしても、できるだけ自分のなかで現実よりも幻想のほうを優位に置きたいと感ずるのは、必ずしも欲望だとか怠惰によってではなく、なにがしかの意志によってそう促されているからだと思います。 まあ、ひと昔前ならかなり夢々しい話ではありますが、今日においては比較的理解され得るのではないかと想像できます。いかがでしょうか。 この往復書簡やホームページでもちらほらと触れているように、馬頭は時折、自分のことをグノーシス主義者だと思うことがあります。社会人でありなおかつグノーシス主義者であるというのは実は現代におけるグノーシス主義者としては典型的なことで、たとえば近年で最もグノーシス的な映画である『MATRIX』においては、主人公ネオの日常生活はまったく平凡な社会人、そうであることが強調されたような平凡な社会人です。 ルーツとしては、 グノーシス主義→神秘主義→ニューエイジSF→『MATRIX』 という罫線を引くことも可能なわけですが、フィリップ・K・ディックに見られるグノーシス主義の影響だとか、『MATRIX』の物語構造とグノーシス神話の比較といった話題は、仔細に過ぎるのでまた別の機会に触れたいと思います。 そこで、ひとことでグノーシス主義の骨子とは何かと問えば、「現実逃避をラディカルな思想として突き詰めたもの」だと云い得るでしょう。そもそも一元論に対して二元論を提起することは、この世の創造原理を善なる一者に帰すことを拒否することだからです。 グノーシス主義者は、旧約聖書における造物主をデミウルゴス(ギリシア語で「造物主」を指す)と呼びならわし、邪悪なものと定義しています。デミウルゴスは邪悪でありながら同時にこの世の君主でもあるので、涼風様の「ビックマザー」といかに近い概念であるかがわかります。 そしてグノーシス主義者は、デミウルゴスによって創造されたこの世を悪しきものと見て否定し、むしろ現実逃避のほうこそ善なる原理に通ずるものであると奉じているのです。 さしあたって、プレローマ界というのがグノーシス主義的宇宙観においては魂の故郷とされることは、この往復書簡でも以前に述べたかも知れません。グノーシス主義の主要な聖典の一つである『ヨハネのアポクリュホン』に依れば、爾来、我々の魂は清浄なるプレローマ界にて生まれたにもかかわらず、悪しき造物主ヤルダバオト(デミウルゴスはさまざまな名によって呼ばれる)によって掠め取られ、出自についての記憶を奪われたあげく、世界という牢獄のなかに幽閉されてしまったとされています。そこでグノーシス主義者は、自らの内なる声に耳を傾け、プレローマ界との霊的交感を行うことによって、デミウルゴスに打克ち、最終的に孤独な魂はプレローマ界へと帰還します。 ちなみに、このようなグノーシス主義に親縁的なものとしてしばしば比較し論じられるのは、哲学者としてはプラトン、フィチーノ、ヤコブ・ベーメ、マルクス、ハイデガー、ユング、E.M.シオラン、ソロヴィヨフといった面々です。また宗教においてはゾロアスター教、マニ教といった二元論宗教は云うまでもなく、キリスト教内における異端であるところのカタリ派、ボゴミル派、小パオロ派など、また権力としてはナチス、ロシア共産党が「グノーシス的」であるという言説が散見されます。その他にもニューエイジ思想やオウム真理教なども、一部の声によれば「グノーシス的な」勢力と見做されています。 誤解のないように申し述べておきますと、なにもプレローマ界やデミウルゴスが「実在する」と主張したいわけではありません。ただ、グノーシスの教義は今日において実にアクチュアルな示唆に富んでおり、最も興味深い哲学にも匹敵すると思えるために、しばしばそれについて学んだりあやかったりしているという次第です。(※註2) それにしても、なぜグノーシス主義者はプレローマ界などという前提をつくる必要があったのでしょうか。それは、ようするに子供が両親に対して「ぼくの本当の親は遠いところにいるんだ」と夢想を抱くのと同じように、グノーシス主義者はこの惑星に対して「僕はほんとうはこの星で生まれたんじゃないんだ!」と夢想を抱いているようにも見えます。 「僕はほんとうはこの星で生まれたんじゃないんだ!」というポジション(なにやら今度は、ポジションという言葉を「スタンス」の意味で使っておりますが)を生涯持ち続けること、常にプレローマ界への帰還を想いつつ過ごすというのは、移ろいゆく日々を仮初めのものとして観る、いわば仏教の世界観にも一脈通じています。事実グノーシス主義は、ときおり「西洋の仏教」と仇名されることがあります。 ……ずいぶん寄り道が長くなってしまいましたが、キリスト教が定めた一夫一妻制の《結婚》になぜ懐疑的なのか、おぼろげながら構図が浮かび上がってきたようです。 ドニ・ド・ルージュモンは『愛について』において、いわゆるトリスタン的な恋愛、相手を神的なものと見做すトルバドゥール的な恋愛の起源を、カタリ派の教義(すなわちグノーシス主義)に属するものと論じております。これはたいへん高名な説ではありますが、今日の水準からすれば実証の過程で恣意性が強いという批判は避け難く、すべて鵜呑みにするわけにはいきません。しかし少なくとも《永遠の女性》という恋愛のあり方が二元論に属するという根本の提起は正しいと思われます。 グノーシス主義者によって夢想される《永遠の女性》なる概念は、もちろんプレローマ界の原理に属しているがゆえに完璧に比類なき女神であり、二人は永遠に結ばれる運命にあります。 当然ながら、そんな夢想が現実の配偶者と激しく対立することは避けられません。《結婚》はグノーシス主義者に対し、内なる《永遠の女性》概念を捨てるか、当面のあいだ忘れ去ることを要求します。結果として《結婚》とは、人をして《一義的世界》のほうへ、あるいは《三次元》のほうへと向けさせる強制力を発揮しているように思うのです。 キリスト教は、バッハオーフェンやモルガンが彼らの欺瞞を暴きたてるまでじつに二千年近くもの間、我々はアダムとイヴの時代より一夫一妻を頑なに守り通してきたと信じ込ませることに成功しました。結ばれる相手とは神によってあてがわれた配偶者、すなわち《永遠の女性》であるというのは、相手が現実の、一人の女性であるかぎり、おのずと矛盾たらざるを得ません。 なぜなら一人の女性とは、いかに優れた女であったとしてもイデア論(イデアはグノーシス的です)の観点からいえば形相(エイドス)であるに過ぎず、絶対に普遍の女性たり得ないからです。 実存としての異性が内的幻想としての異性と隔たったものであることは如何ともしがたく、幻想を抱きうる女はつねに過去の女であるか、未来の女であるか、とうとう出会うことのない女であるか、そのいずれかであるほかはありません。それですら、過去の女は再会してしまえばすでに過去の女ではなく、未来の女も出会ってしまえばすでに未来の女たり得ません。 結局、純粋なグノーシス主義者は、内的な《永遠の女性》を尊重するあまり実存としての異性をいっさい受け容れません。まあ現代社会においては、異性と付き合わずにそんな事を云っている奴は負け惜しみとしか捉えられないわけですが、そんな彼らの中にも、負け惜しみではなくラディカルに女性を拒否している者がごくまれに混在することについては、慎重に留意されるべきでしょう。 また、形相からイデアを垣間見るためにより多くの女性と関係を持とうとする「グノーシス主義者」については……歴史上、性的淫蕩を繰り広げたとされるグノーシス主義者のエピソードは少なくはありませんが、それらの大半はキリスト教側の資料しか今日に残されていないためであり、まあゼロではないにしても、実態を掴むことはきわめて困難です。その是非については……まあノーコメントとしておきましょう(苦笑)。 アンソニー・コリンズ(英1676-1929)は、『自由思想家とよばれる一分派の成立と成長を機会に思想の自由を論ず』(1713)の冒頭で、「自由こそ、じつをいえば、思惟の本質であるから、自由は思考に不可欠である」と書いています。彼にとっては、ボナレリの詩に典型的に見られる神学的態度、すなわち《目ヲ閉ジテ信ズル者ダケガ、天国ヲ見ル》という態度は許し難いものでした。思索するとは、その思索の結果がいかなる地平へ辿り着いたとしてもそれを許容しうる環境がなければ、往々にして毒ニンジンを食べたり焚刑に処されたり妻子を捨てて出奔しなければならぬ、たいへん困難なものになるでしょう。 つまり、ポジションを持つこと自体がすでに純粋な思考を不可能にしていると云うべきなのかも知れません。自分の属している文明や国家、周囲の環境が、自分の思考にどのようなバイアスをもたらしているかに意識的であることは、何事かを考えるうえでの必要最低条件であると思います。しかし、これはあきらかに矛盾した話ではありませんか。 というのも、すべてのバイアスを退けた純粋な思考なるものに実体はないし、そもそも必要すらないかも知れないからです。果たして思考とは、それを分泌する者にとってポジションの表明という以上の意味を持つのでしょうか。 もちろん考えることがすべて有益なものに奉仕しているわけではなく、場合によってはそれ自体が愉しみである場合もありますが、それにしたところで、思考が《芸能》たり得ているか、すなわち観客を耳目を賑わすだけの垢抜けた内容が準備されているかは問われなければならないでしょう。あるいは、純粋に自分だけのために考えるという不吉な行為のみが、純粋な思考の必要性を保障しているのかも知れません。 純粋な思考は、なんのために必要なのでしょうか。いわく説明し難い純粋な思考に向かって、それでも我々は魅きつけられてゆくという、人文科学の方向性はたしかに確認されるのですが……。 それにしても、最初に述べるべきだったかもわかりませんが、《ポジション》という言葉にどうしても株や為替の取引を思い浮かべてしまうのは私だけでしょうか。 ご存知のように、株および為替の取引のさい、自分が出した注文が成立した状態をポジション(建玉)と呼びます。この場合、ポジションには二種類あって買建玉と売建玉に分かれるわけですが、たとえば為替でドル‐円を扱う場合、円安を見越したドル買いポジションと、円高を見越したドル売り(円買い)ポジションとがあります。 面白いのは、我々がドル買いポジションを持った場合、円に対してドルの価値が上がることを期待するわけですから、日本人でありながらアメリカの繁栄と利害が一致する(しかも日本が凋落すれば相対的に利益になる)ことになり、これはなかなか奇妙な心境に陥ります。 たとえば今年の八月二日、イラク情勢に絡んでアメリカのテロ警戒水準が引き上げられた結果、ドル‐円レートは一日にして110円半ばから110円前半まで下落しました。そこから原油価格の高騰や美浜原発の事故の影響でドルは再び上昇したのですが、同月七日午前に発表された米非農業部門雇用者数、通称「雇用統計」の結果は、予想24.1万人増に対し結果3.2万人増と、予想を大きく下回る水準で、その後わずか数十分でドルは一時的に109円85銭まで暴落しました。 こうなってくると、ドル買いポジションを保持している人は、どうしてもアメリカを応援したくなってきます。同様に、ドル売りポジションを持っていれば極端な場合テロを待望するということもあり得ますし、ユーロにせよポンドにせよ事態は同じことです。インターネットの某巨大掲示板では、ユーロ売りのポジションを持っている人間が、 「オリンピック当日 → 未だ工事中 → ユーロ下落(゚д゚)ウマー」 なんていう冗談を飛ばしたり、笑えないものとしては、 「テロリストによる選手村襲撃 → 犠牲者多数 → オリンピック中止 → ユーロ暴落(゚д゚)ウマー」 というようなブラックジョークが連日飛び交っています。 このような場では、アメリカのイラク戦争における道義性だとか、新政権の正統性などといったことはまったく問題とされておりません。ただいかなる《ポジション》を持っているかによってのみ、アメリカは贔屓にされ、あるいは蹴落とされるのです。 前回に差し上げた書簡で、 「日本人である我々も、愛情のある家庭を持つ者ならひとしく犠牲者の遺族の哀しみを共有し、テロリズムを憎んだことでしょう。しかし同時に、ラディカルたらんとする者ならば、多かれ少なかれビンラディンにシンパシーを感じたのではないでしょうか」 と私は書いたわけですが、それを今回の話に即し、よりニヒリスティックに書き換えるなら、次のようになるでしょう。 「日本人である我々も、ドル建て資産を持つ者ならひとしく犠牲者の遺族の哀しみを共有し、テロリズムを憎んだことでしょう。しかし同時に、ドル売りポジションを持つ者なら、多かれ少なかれビンラディンにシンパシーを感じたのではないでしょうか」 ……という話はあんまりかも知れませんが。 さて前回の書簡といえば、涼風様のサイトに掲載されている欄外の注に、今年三月の新婚旅行につき、こんなことが書かれているのを不意に発見いたしました。 「旅行時のレートで1ユーロ=140円くらい。旅行中にマドリッドでテロがあって急落した。レート差で大損した、なんて個人的なことで嘆くよりも、もう少し大きなことで嘆くべきなのだろう、きっと」 なにやら馬頭が上で述べたことを予見しているかのような内容で少々びっくりしましたが(※註3)、これが現金ではなく保証金取引だったとしたらどうでしょう。個人的な嘆きで「もう少し大きなこと」など吹っ飛んでしまう人は大勢いるのではないでしょうか。 いわゆる社会的視野というものは、当人の利害が絡むと悲しくなるほど無力でかつ無節操な代物だというのが―例外は少なくないにしても―人間の本性なのだということは、はたして涼風様の同意が得られるかどうか、伺ってみたいところではあります。 しかし新聞やテレビのニュースで知り得た、赤の他人や関わりあいのない共同体の不幸や悲劇に対し、あまり親身になって悲しんだり憤ったりするのも、少しおかしな話だとは思います。縁遠い者の不幸に対し、縁遠いゆえに何も感じないというのは不感症のそしりを免れ得ませんが、だからといって、彼らと我々との間にある距離や隔たりを、ないことにしてしまう……という姿勢も、それはそれで逆の意味で不感症と呼べるのではないでしょうか。 さて、なにやら女だの金だの直截的な話ばかりになってしまったのは馬頭の下世話ゆえの災いですが、しかし女と金と形而上学は、世界について考える上で三位一体の最重要テーマではないかとひそかに考えておりますので、畢竟、直球勝負な発言が多く、正しいにしろ間違っているにしろ、これはこれでよかったのではないかと自己満足しております。 それでは、涼風様のお返事を、いつもながら楽しみにしております。このような言論の試みは、並べて男性=オタク的生き物の営為とは存じますが、「天下国家を論ずることこそ自閉である」というようなアイロニーは脇へ置いておき、「自閉こそ天下国家を案ずる道である」とうそぶいてみるのも一興かと。そんなわけで、奥様にもよろしくご挨拶いただければと存じます。 それでは、また次回。 |
ニ〇〇四年八月十五日 馬頭親王 拝 |
(※註1)
与謝野鉄幹……いやっ、すいません、ただの独り言です。 (※註2) ところで「実在」とは何であるか、などと問題提起をすると、実に「古典的」な哲学論議に繋がりそうな予感。「科学も宗教も同じだ」とか言ったのは宮澤賢治だっけか。ともかく私はプレローマ界やデミウルゴスの「実在」「非−実在」について論ずるより、「そのような概念を導入することによりどのような思想の世界を開くことができるか」について考える方がよほど興味深いと思うので、その点で馬頭親王氏のスタンスに同意する。 (※註3) 今回に限らず、馬頭親王氏と私の間には、どうやら不思議なシンクロニティが働いている模様である(キイロスズメバチの時のシンクロぶりといったら、もう)。おかげで滅多なことを口走るわけにはいかない。くわばら、くわばら。 |
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