「『それでも私は思索する宣言』の採択について」







 馬頭親王  様


 お久しぶりです。例によって気候の話題などから無難に始めようかと目論んでおりましたら、今年は空梅雨に酷暑に台風と、まったく無難なところがありません。かくいう私の母校でも、観光名所として名高いポプラ並木が台風18号の直撃を受けて倒壊したとかで、まったく寂しいやら物悲しいやら、湿っぽい気分です。
 ところで私は既に北海道を遠く離れ、千葉県の片隅に居を構えるようになって久しいのですが、それでも今回のように札幌界隈に関するニュースが流れますと、自分の街だ、というふうに考えて感情移入してしまいます。今の私は本籍も現住所も千葉県ですし、通った小学校も中学校も高校も、現在の職場もすべて千葉県にあるのですから、本来であれば、千葉県をこそ自らの拠り所とするのが自然な姿であるように思います。私の職場も台風22号の直撃を食らい、その後始末におおわらわの現状ですから、札幌の心配などしている場合ではないのかもしれません。にも関わらず、北海道を、札幌を、それこそ千葉県よりも強く思ってやまないのは、故郷を持たないニュータウン住民として生まれ育った私の、故郷に対する必要以上の憧憬の表れであるのかもしれません。

 さて、今回でこの往復書簡もちょうど十回目、一区切りのタイミングを迎えました。今回の書簡をもっていったんこの企画の終了とするお話は、既に随所で御相談させていただいているところです。
 ですから今回は一応、これで完結、というつもりで、締め括ることができるように書いて行きたいと思います。どこまできれいにまとまるか自信がありませんし、次の企画へと積み残してしまう話題もいくらか出てしまうことと思いますが、御容赦ください。



 前回の書簡で馬頭様が「強制収容所で囚人たちが行うゲーム」の話を御紹介くださいましたが、強制収容所、というタームのせいか、私が反射的に思い出したのがプリーモ・レーヴィ『アウシュヴィッツは終わらない』(朝日新聞社、原題は『これが人間か』)でした。まずはこのお話からさせていただきます。
 例によって読者の目を想定して解説させていただきますと(※註1)、プリーモ・レーヴィは第二次大戦時のいわゆる「ホロコースト」のサヴァイバーの一人で、科学者であり詩人であり、作家でもあります。イタリア系ユダヤ人である彼はパルチザン運動に関わり、その後逮捕されて強制収容所に送られます。自らが強制収容所に収容された体験を描いた本書『アウシュヴィッツは終わらない』は、フランクルの『夜と霧』と並んで、ホロコーストについて語る上での基本文献として知られています。
 さて、この『アウシュヴィッツは終わらない』の中に、こんな記述があります。収容所の中で、ジャンという青年と二人で配給のスープを運ぶ係となったレーヴィは、スープを運びながら、ジャンと話をしています。そのうちに話題がダンテの『神曲』のことに及びます。レーヴィは『神曲』とはどのような話なのか、その個々のセンテンスにどのような文学的意義があるのか、といったことを必死で思い出しながら、ジャンに語り続けます。ここは死と隣り合わせの収容所であり、誰もが人より少しでも多くのパンとスープを口にするために必死の極限的状況に置かれているのですが、レーヴィは『神曲』をイタリア語からフランス語に翻訳しながら暗誦している間、その知的興奮の中に、自らの人間性を見出すのです。

 私はピコロ(=ジャンのことである…引用者註)の足をとめる。手遅れにならないうちに、この「かの人の心のままに」を聞き、理解してもらうのが、さし迫った、絶対に必要なことなのだ。明日はどちらかが死ぬかもしれない。あるいはもう会えないかもしれない。だから彼に語り、説明しなければ、中世という時代を。このように、予想もできないような、必然的で人間的な時代錯誤を犯させる時代を。そしてさらに、私がいまになって初めて、一瞬の直観のうちに見た何か巨大なもののことを、おそらく私たちにふりかかった運命の理由を説明できるもの、私たちがここにいるわけを教えられるものを、説明しなければ……。
 私たちはもうスープの列に並んでいる。他のコマンドーの、ぼろを着た不潔なスープ運びたちがひしめく、その真っ只中にいる。あとからやって来たものたちが、うしろでもごった返している。「キャベツとかぶかな?」「キャベツとかぶだ」今日のスープはキャベツとかぶだ、という公式の発表がある。「キャベツとかぶだとさ」「キャベツとかぶだぞ」
――プリーモ・レーヴィ『アウシュヴィッツは終わらない』(朝日選書)

 例えば今日の食事と睡眠を確保すること、危険を避けて生命を維持することは、ある種の《必然性》に由来する行動です。アウシュヴィッツに象徴されるような、生命に急迫の危機が及んでいる状況下では、この《必然性》が肥大し、義務的活動に日々の大半を費やさざるをえない、ということができるでしょう。
 他方で『神曲』の一篇をそらんじて聞かせる、といった行為には、生命活動に直結する形の《必然性》はない、という意味合いにおいて、《余剰》に当たる行為であると言えるでしょう。
 しかし――特筆すべきことであると同時に、当然のことでもあるのですが――人間が「人間らしさ」を見出すことができるのは、《必然性》ではなく《余剰》の方にこそあります。《必然性》に律せられる生活様式を「動物的」と呼ぶのであれば、若干人間という種の思い上がりを指摘せざるをえませんが、それでもわれわれは伝統的に、《必然性》を「動物」の領域に、《余剰》を「人間」の領域に結びつける思考法を行ってきたのです。
 こうした思考法の伝統をまとめたものが、ハンナ・アーレントの主著『人間の条件』です。

 たしかに人間の活動力は、すべて、人びとが共生しているという事実によって条件づけられているのだが、人びとの社会を除いては考えることさえできないのは、活動だけである。たとえば労働という活動力は他者の存在を必要としない。もっとも、完全な孤独のうちに労働する存在は、もはや人間ではなく、まったく文字通りの意味で〈労働する動物〉animal laboransではあるが。また、たとえば、なるほど自分だけで仕事をし、製作し、自分だけが住む世界を自分だけで建てる人間は、〈工作人〉homo faberではないかもしれない。しかし、やはり製作者ではある。そういう人間は特殊に人間的な特質を失っており、むしろ、造物主とはいえないまでも、神であり、プラトンがある寓話の中で描いたような神的なデミウルゴスであろう。こうみると、活動だけが人間の排他的な特権であり、野獣も神も活動の能力を持たない。そして、活動だけが、他者の耐えざる存在に完全に依存しているのである。
――ハンナ・アレント『人間の条件』(ちくま学芸文庫)

 アーレントは『人間の条件』において、人間の基本的な活動力を〔労働labor〕〔仕事work〕〔活動action〕の三種に分類しています。
 〔労働〕とは先に挙げた《必然性》に属し、生命活動の維持のために必要な所作を行うことです。
 〔仕事〕とは自然界に手を加え、人工的ななにものかをこの世に生産する動作です。
 そして〔活動〕とは言語活動、端的に言えば、政治の場における活動です。
 アーレントはこれら三つの「活動力」が、古代ギリシアに端を発する伝統的な生活様式から、今日の科学技術社会に至るまでの間、どのような価値の転向をもたらしてきたのかを解き明かそうとします。ここで「公的領域」「私的領域」という彼女の有名なタームが出てきます。アーレントが活動的生活の古典的モデルとして置くギリシアのポリスにあっては、〔労働〕に律せられる「私的領域」は奴隷に任せきりにすることで、〔活動〕の場である「公的領域」への参与が可能であったのですが、経済=社会=私的領域が肥大していく近代以降にあっては、このヒエラルキーが逆転し、〔労働〕こそが人々にとって最大かつ唯一の活動力となり、〔活動〕の場は喪失されてしまっている、というのが本書の分析です。
 本書に続くアーレントの代表作『革命について』では、necessity(「必然性」を意味すると同時に「貧窮」を意味する単語である)という語がより頻繁に用いられるようになりますが、既に『人間の条件』にあっても、「必然性=貧窮」と「労働」と「私的領域」の蜜月関係は強く意識されていたのでしょう。
 これに従うならば、近代以降に生きるわれわれは既に、《必然性》の圧迫を受けすぎるあまりに、人間的な領域である《余剰》=〔活動〕=「公的領域」に通じる回路を失してしまっている、という点において、もはや絶滅収容所においてただ「生かされている」のと変わりがない、と言ってしまってもいいのではないでしょうか。

 手前味噌で恐縮ですが、以前この往復書簡でも取り上げていただいた拙作『スイヒラリナカニラミの伝説』は、アーレントの『革命について』に強いインスパイアを受けたものでした。つまりわれわれは、清潔な衣服と温かい食事を与えられていながらも、ある意味絶滅収容所にいるかのような不自由を、漠然と感じている。したがって自由の創設=革命を欲するのですが、既に「貨幣が唯一の哲学」である世界、《必然性》が肥大しきって「公的領域」を飲み込んでしまったような世界にあっては、もはや求めるべき自由(この際ここでの「自由freedom」とは「公的領域」での〔活動〕のことなのだ、と言ってしまいましょう)に至るための回路は遮断されており、われわれは《必然性》の支配する社会の回路の中で循環を繰り返すほかにないのだ……そういった世界のイメージを強く抱きながら、あの小説を執筆していたことを、告白しておきます。
 例えばあの小説の中で私は「(人間の)尊厳」という語をかなり意識的に用いました。あの作品世界の登場人物たちは、多かれ少なかれ、「人間の尊厳」に対する不安を抱いています。「一九九五年の『彼女』」に至っては、絶滅収容所の例を持ち出してまで、「この世界」が「人間の尊厳」に与える「決定的な打撃」について訴えています。ここには「貨幣」に象徴されるような《必然性》の肥大した社会は、絶滅収容所に匹敵するほど「人間の尊厳」つまり「人間らしさ」を抑圧するのだ、という思想が見てとれます。
 ここで「人間の尊厳」という語を選んだのは、「ヒト」が「人−間」であるためには、インターサブジェクティブな領域が不可欠であるということ、他者との間に相互承認を行い、自らの現われとなる、アイデンティティの場が必要であるということを、強く意識したからに他なりません。そうした「場」とはアーレントの言う「公的領域」の概念にきわめて近しいものであり、したがって、『スイヒラリナカニラミの伝説』の世界観も、アーレントの用語法に置き換えて分析することが可能であるわけです。(もちろんこうした一面的な分析をもって小説作品を理解しようとすることには少々の危険があるのですが、作者が自分の作品に対して行うことですから、多少乱暴でも大目に見ていただけたら、と思います)



 さて、それでは《9.11》のインパクトが、われわれの「人間の尊厳」に打撃を与えるものであるところの「《必然性》=貨幣」を象徴するなにものかに攻撃を加えたことによって、ある種のカタルシスを充足しはするものの、決して自由の創設としての「革命」に結びつきえないのはなぜなのか。……なんてことを語りだすと長くなりますので、それはまたの機会に措きましょう。(※註2)
 なにしろ前置きが長くなりすぎました。そろそろ、本題に入らなくてはいけません。馬頭様の前回の書簡では、思考がある地点を指向するために有効であろうひとつの手段として「現実逃避」という選択肢を呈示されていました。
 ここで「現実real」という、往復書簡の当初のキーワードに戻ってきた、ということにはある種のめぐり合わせのようなものを感じるのですが、議論がここへ戻ってくるのはある意味必然であったのかもしれません。
 プレローマ界へ向かおうとする魂が、脱出しようとしているこの「現実real」は、思えば、実に「必然性−貧窮necessity」と親和的だったのではないでしょうか。

「だからお前は現実を見ていないって言われるんだよ。現実を見るっていうのは、それこそ、期待とか希望的観測とか、先入観を除外して、ありのままに現実を見るっていうことで、これほどむずかしいことはないんだけど、そんなことに誰も気づいてないんだ。お前の作品論なんか誰も聞きたくないし、お前は誰からも期待されていないっていう事実をまず直視すべきだろう。違うか」

 ……というのは、もはや私たちの間で共通の「笑いの種」と言ってもいい、村上龍の『どこにでもある場所とどこにもいないわたし』の一節ですが、ここで村上龍が使用する「現実」というタームは、素朴に「必然性necessity」としての「現実」を指しているものと理解できます。「13歳のハローワーク」からも分かるとおり、村上龍には〔労働labor〕と〔活動action〕の区別がついていませんので、未だに労働=私的領域=必然性necessityの世界において、自己実現が可能であると信じている節があります。少なくとも、そうした「労働信仰」を無邪気に巷間に広めているという点で、十分に責められるべきものです。
 ところで「労働信仰」といえば村上龍に顕著なものかもしれませんが、これを「現実信仰」という語に置き換えれば、われわれも無縁ではいられません。馬頭様が以前の書簡『現実まで何マイル?』でジジェクを引いて仰ったとおり、現代に生きるわれわれは多かれ少なかれ「現実教」に毒されているのであり、世界貿易センターのビルディングが崩壊する映像はそれゆえに「現実教徒」であるわれわれにエクスタシーを充足するのです。これはまったく宗教的な熱狂に等しいものであり、したがってわれわれは、一旦頭をクールダウンして冷静な思想に立ち返ろうとするならば、まずこの「現実信仰」の枠組みを破壊するために、現実逃避の方策を探らなければならない、ということになるのでしょう。
 通過した経路は異なりますが、だんだん結論が馬頭様と近いところに向かいつつあるようです。「現実逃避」という思想的実践は、われわれがただ「現代に生きている」というだけでその影響を回避できない「現実信仰」につき、それを意識的に捉えることで、その枠組みを飛び出し外側から俯瞰しようとする、という意味合いにおいて、間違いなくラディカルであるわけです。

 少しまとめてみましょう。現在、広く世界を包む「現実信仰」の背景には、アーレントが明らかにしたような〔労働〕と〔活動〕のヒエラルキーの逆転による、「必然性−私的領域」の肥大があることを、まず指摘したいと思います。その上で、必然性に支配された「現実」は、強制収容所における労働に似て、その中に「人−間」としての喜びを見出すことが困難な状況である、と言ってしまいましょう。
 そして、世代論に還元して言えば、「RPG世代」であるところのわれわれは、「現実」の呪縛ともいうべき「いま−ここ−わたし」のくびきから比較的自由でいられる、ということ、また「現実」から遊離したところに視点を置くための手段として「空想」あるいは「幻想」とでも言うべきものを、気軽に使いこなすことができる、ということが、馬頭様の前回の書簡における分析であったと理解しているのですが、よろしいでしょうか?

 ここらで少し余談に逸れますが、

 Don’t stop believing この世界中が 俺に愛想を尽かしても
 I can’t stop rolling 俺には出来ない 歌うことのほかに今は
 I can’t stop believing
 右も左も 休むこともなく Wastin’time, Wastin’time
 ノルマに怯えてる Everyday
 快楽だけをむさぼるだけで Satisfied, Satisfied
 俺には出来ない相談さ
――『Don’t stop believing』

 ……というのは、ロックバンドZIGGYが90年に発表した楽曲の一節ですが、例えば80年代後半から90年代初頭(丁度バブルの時期と重なります)に比して、近年の音楽に決定的に失われているものは「ロックンロール」である、というのが私の持論です。
 世間が好景気に小躍りしていたこの頃、例として挙げるのはBOOWYでもZIGGYでもTHE BLUE HEARTSでもはたまたBAKUFU-SLUMPでもいいのですが、「社会に対し反抗を示す」というのは一つの確立されたスタイルであり、ステータスでした。
 しかし今や「反抗」のスタイル自体がひとつの「パッケージ」であり、もはや戯画化されたものとして受け取られざるをえません。(そうした中で氣志團をどう評価したらいいのか、というのは私も迷うところなのですが。閑話休題)音楽はどちらかといえば、システムに馴化される側を選びました。ある意味陽水のように「酔わされたままでいる」ことを選んだのかもしれません。
 ところで、「どちらかといえば反権威の空気が強いオタクたちには、オタク的な手法以外のものに対する不信感があり、アニメやゲームについてオタク以外の者が論じることそのものを歓迎しない」(『動物化するポストモダン』講談社現代新書)などいう東浩紀の主張に賛同する気は到底ありませんが、それでも、音楽が「反体制・反権威」の象徴でなくなった今、その役割を担うことができるのが「オタク文化」であるかもしれない、ということは、ひそかに考えています。「オタクこそがロックンロールの正統な継承者である!」と言えば、少しウケを狙いすぎでしょうか。
「カウンターディメンショナル」とは実に興味深い発想ですね。「思想としての『萌え』」にはまだまだ研究の余地がありそうです……などと言うと、『萌え』が本来有するセクシュアルな側面が薄れてしまうようで、また難しいところなのですが。



 RPGという遊戯に、例えば小説を読むことや絵画を鑑賞することの中にはない愉楽を見出そうとするならば、その最たるものは、自らの「いま−ここ」と切り離せない固有の〔ポジション〕からしばし遊離し、「架空の」ポジションからの発話を通じて他者とコミュニケートする点にあるのだ、と私は思います。
 ところで私が前回持ち出した、この〔ポジション〕なる胡散臭い概念については、やはりもう少し説明を加えておいた方が良いかもしれません。〔ポジション〕なる語を「ペルソナ」や「スタンス」と異なる意味で使おうとする場合、鍵となるのは「発話」と「他者の承認」そして「自己選択不能であること」であるだろう、と私は勝手に考えています。
 この書簡で私は〔ポジション〕という語を多分に政治的な用語として用いています。つまり〔ポジション〕という語の示す射程は、社会活動全般ではなく、言語活動の狭い範囲に限られ、また前回の書簡で述べた〔主体〕と〔ポジション〕の相互フィードバックというのは、それ単独で作用する装置ではなく、言語活動である以上、このサイクルの外部に「他者」の存在が不可欠であるところです。
 このような性格の〔ポジション〕という語のイメージからすると、前回の書簡で馬頭様が挙げられた例の中では、実は、株や為替取引における〔ポジション〕こそが、私のイメージに最も合致しています。
 例えば件のテロ事件に際して、誰かがこう言ったとします。

A:「テロとは人類社会そのものに対する犯罪であり、いかなる事情の下においても、これを許すことはできない」

 ところがこれに対し、別の誰かが、このような「反論」を行いました。

B:「お前、米ドルで資産持ってるからそんなこと言うんだろう?」

 仮に最初の発言者Aが、自分では「純粋な思考」を重ねた上での到達点として、上記のような発言を行ったのだとしても、受け手であるBはそのように理解しません。このような「発話と受容のずれ」をもたらすものこそ〔ポジション〕である、というのが私の用語法です。
 また、このような〔ポジション〕は各自に固有の、多様な要因によってもたらされるものであり、それらの要因の中には自ら変更をもたらすことが困難なものも少なくないため、自ら拠って立つ〔ポジション〕を自ら選択するということは、ほとんど不可能であるといえます。例えば私は、全財産をユニセフか歳末助け合い募金かどこかに寄付して無一文になったり、現在の住居から突然逃げ出して新宿か池袋の地下街で段ボールにくるまって眠る生活に切り替えたりすることは(理論上は)可能ですが、突然八十歳の老人になったり、身長2メートルの巨人になったりすることはおそらく不可能です。
 したがって、

「旅行時のレートで1ユーロ=140円くらい。旅行中にマドリッドでテロがあって急落した。レート差で大損した、なんて個人的なことで嘆くよりも、もう少し大きなことで嘆くべきなのだろう、きっと」

 と私が発言したときには、既に日本で700ユーロくらいの現金とトラベラーズチェックを手に入れてしまって、実際に「レート差で大損」してしまった後であるわけですから、時間を戻す超能力も、テロ以前のレートで再両替をする裏ルートも持たない私が、現実的に「もう少し大きなことで嘆く」のはなかなか困難であるわけです。(だからこそ、このようなことを書かずにいられなかったわけですが)
 このように〔ポジション〕は、その者の政治的な発話をある意味において「限定」あるいは「ある発話を禁止」する作用があり、この意味において、馬頭様のご指摘のとおり、「ポジションを持つこと自体がすでに純粋な思考を不可能にしている」のだと言えるでしょう。というより〔ポジション〕という概念自体が「純粋な思考は不可能である」という事象の論証のために仮構された概念なのだ、と言っても言い過ぎではないかもしれません。
 そして、実のところ「それでいいのではないか」というのが、私のスタンスなのです。究極的には「純粋な思考」なるものは不可能であろう、と私は信じています。しかし「純粋な思考」に限りなく接近していく、その無限の運動を続けることには意義があるだろう、ということも同時に信じています。
 例えばそれは、人は決してイデアを見ることができないにも関わらず、洞窟の壁に映る影(=エイドス)からイデアの片鱗を垣間見ようとする、という有名なあの比喩にも似ているかもしれません。
 人は被造物のうちでも特に神の似姿として作られた、なんて言われても仏教と儒教と神道のクレオールであるところの私にはどうもぴんと来ませんが、人間には本来的な不完全性があり、それゆえにある種の完全性、絶対性の方を指向して運動するのだ、ということであれば、感覚的になんとなく理解できます。われわれは神ではないし神にはなれないけれども、神的ななにものかの方向へと突き動かされているのだ、と。
 純粋な思考は不可能なものでありますが、不可能なものであるからこそ、われわれ人間は純粋な思考へより近づこうと、プラトンの頃より無限の運動を繰り返してきたのだろうと空想します。それこそが、被造物の宿命ともいうべき《必然性》から離れ、われわれを動物から分かち人の子たらしめるがゆえに、そこに喜びがあるのではないでしょうか……おっと、何やら新興宗教の教祖さまみたいになってしまいました。

 強引にまとめてしまいましょう。「純粋な思考」へ近づこうと思考すること、すなわち思索することは、それ自体が「人間的な」喜びに満ちているのではないでしょうか。
 馬頭様の先の書簡での問い「純粋な思考は、なんのために必要なのでしょうか」に対しては、「すべてのバイアスを退けた純粋な思考なるものに実体はない」という前提を肯んじた上での返答として、不完全ながらも、「われわれを人間たらしめる無限の運動の、その目指すべき目標地点として、必要なのだ」という答えを返してしまうことにします。
 ところでこの思索という所作には、タマネギの皮でも剥いているような(どこまで剥いても《中心》なるものには到達できない)徒労感があることは認めざるをえません。馬頭様の仰るとおり「自分の属している文明や国家、周囲の環境が、自分の思考にどのようなバイアスをもたらしているかに意識的である」ということは、今や思索を進める上での大前提であるにも関わらず、この大前提を認めることにより、同時に「純粋な思考」への到達不可能性をも認めてしまっているような、一種のダブル・バインドに至っていることも、また確かだと思います。われわれは自らを「中立的なポジション」に置き、いっさい〔ポジション〕からの干渉を受けずに純粋な思考へと突き進んでいけるのだ、などと無邪気に信じられるような時代には生まれてきていません。
 しかし例えば、このダブル・バインドと終生戦い続けた人物の代表格として、われわれはデリダの名を挙げることもできるのではないでしょうか。われわれがその思考の大きな部分を「ことば」というツールに依存している以上、その「ことば」の性質や構造から自ずと思考に制約を受けるものであるけれども(例えばジョージ・オーウェル『1984年』を思い出してもいいでしょう)、その「ことば」というツールによりもたらされたバイアスを、同じ「ことば」を用いて戦略的に「脱線」させることにより無力化しよう、というのが「脱−構築」という試みだったのではないでしょうか?(※註3)
 もちろんデリダ(とそれに感化されたデリダリアンたち)のやり方が唯一絶対の方策だとは思いませんが、それでもデリダの例は、「純粋な思考への到達不可能性を自覚した上での思索」というアポリアに挑むわれわれに、一条の光明を投げかけているように思います。つまり、諦めるにはまだ早いと。われわれにはまだ、試してみるべき方法がいくつか残っているのだ、と。



 少しばかりヒロイズムに毒された感がありますが、私の言いたいところは概ね述べることができたように思うので、そろそろこの往復書簡の幕引きに入りたいと思います。
 以前からずっと、この往復書簡が終わるとしたらどのような形が相応しいだろうか、ということは、漠然と空想していました。なにしろ語れば語るほどに語りつくせない話題が多く、必然的に膨張を続けていくこの企画にあって、「結論」などというものが出るはずがないのですから、「これをもって完結」という形に持っていくのは困難であろうと思っていたのです。
 であるならば私たち二人の採りうるスタンスは、唯一絶対的な「結論」の方向ではなく、当面の合致した点を抜き書きした「共同声明」の方へ向かうべきなのかな、ということも何となく空想していました。とはいえ、この往復書簡は、何らかの政治的な意図のもとに始められたわけでもないのですから、いかなる「同意」について「表明」しえるのか、と考えると、これもまた困難であるように思います。
 そうすると究極的には、私たちの間で共有できる前提というのは「私は、思索する」というごく短いテクストに集束してしまうのかな、ということも考えました。ここから先のより微細な点においても、馬頭様と私との間で共有しうる前提はいくつか発見できるだろうと思いますが、この往復書簡という企画の趣旨からすると、そうした微細な点における同意を表明することに、それほどの意義はありません。
 ただこれだけは確かだろう、と私が確信しているのは、馬頭様が、その困難さを直視しつつも思索し、また思索を続けていること。そして私自身もそうであるよう努めていること、であろうと思うのです。ああ、「純粋な思考に至る困難さ」を共有しているという点をクローズアップするためには、文頭に「それでも」と付記してもよいでしょう。

「それでも、私は、思索する」

 このくらいの短いテクストについてであれば、馬頭様と私の二者間で合意が可能であり、共同の宣言として採択が可能なのではないだろうか……というのが、私の勝手な空想が行き着いた先です。
 もちろん事務的には、この往復書簡の終了後は新しい企画へと移行することを予定しているのであって、無理に往復書簡の「幕を下ろす」必要はないのでしょう。そもそも、私が書いているこの書簡が「最終回」なのでは、馬頭様の御意向を確認する場がなく、この往復書簡の中で「共同声明の採択」に至るのは無理であろうと考えます。
 ただお伝えしておきたかったのは、この往復書簡という企画を通じて、私は馬頭様との間にある種の共通前提(というより「シンパシー」とでも呼ぶべきものかもしれませんが)をより強く感じるようになり、そのような「共有しうるなにものか」を前提とした上で、今後はより立ち入ったお話ができるようになるのかな、と期待しているのだ、ということです。

 それではまた近いうちに、どこか別の場所で。


二〇〇四年一〇月三一日
「あなたのライバル」涼風 輝  拝





(※註1) ナチス本コレクターでもある馬頭親王氏に対し、こんな解説はまさに釈迦に説法であることに、書き上がってから気づいた。

(※註2) 「またの機会っていつだよ」とか無粋なツッコミはご容赦いただきたい。馬頭親王氏とは何事を語っても、語れば語るほど語りつくせなくなる。私たちの間にはそんな未消化の宿題が、既に無数に転がっているのだ。しかし、だからこそ、いずれ二人でこの話題に触れる機会もあろうかと思う。それこそ、お互いに忘れきった頃に。

(※註3) って、偉そうに説明できるほど、私もよく分かってないんですけど。つくづくデリダの逝去が惜しまれます。何より、これでハーバーマスがますますデカい面をするかと思うと…ってのは半分冗談ですが(半分かい)。






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